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格差

最近、僕の中の人文系が次の面(ステージ、ゲームでいう面クリア)に進んだみたいで、そうすると見えるものが変わると同時に、新たな測定を進めなければ霧の中になってしまうの状態。勉強しなかったことが理由の高卒なので、大人になってから勉強の努力をしはじめた。

格差問題のトピックは収入と教育が二大項目だろうか。あとは性別とか地域差が浮かんだ。建前はともかく本音も含めると無数に上がりそうなのでこのくらいにするが、勝手に収入と教育の問題が、社会に対して改善を要求しているように思う。炭火状態になっている。他の焚き火感と少し違う気がする。


価値観が多様化しているて大ウソなんじゃないかと思えてくる。お金と知(本音でいうと学歴で獲得する地位)に価値があるとみんなお揃いで思っている気がするが。多様化している価値観は、顧客の価値観でしょ。市民の価値観は多様化している気がしないし、むしろ統一化の傾向を感じる。

僕は大人になってから勉強をソコソコ頑張りだした。はっきり言えるけど、地位は泣けるくらい変わらないが知はイクラかは高まった。世界の果てが広がっていくので、難しいけど面白いものだった。答えのないものに対しては感覚で接することが多いが、その中には、オリジナルでなら測定できるものもあった。よく、そのために言語が大事だと言われる。

そういったマイ測定基準やマイ測りを、努力にて手に入れられるのが人文系の学問だった。今はみんなお揃いで答えのあるものを求める傾向がかなり高いので、わざわざこんなことをやってみたいと思う人は少ないかもしれない。しかし理数系で実用化された知識やプラクティカルな知は、担当外の人は調べれば済むんじゃないのと思ってしまう。いや能力があった方が断然よいはずだが。(人文系の親分の哲学が、分析系に支配されているからかもしれないが、そこまでは僕は面が進んでいない)


人文系が弱いからという読みは別にしても、なんでこんなに多様化しない社会(格差化社会に意味が重なる)なのだろう。多様は口コミ界の中(顧客間)で成長している。やりたいことをやろうとか楽しもうとかそういうのだけど、深みのない解釈だと逆の意味になってしまう。仕事を分割してみたら答えはあるのかもしれない。人生には答えは用意されていないと思う。人生を分割したらそれは人生といわない。いっとき人生と思っていたという、今やっている面(ステージ、ゲームでいう面)だ。その攻略法を求めることが面の中で必要なだけ。

能力の別名かもしれない人生さんが掴んでいるものは「時と場合による」という固定されない価値観ではないか。これを掴めていることは、生き物たちがその生き物らしく生きることに相当すると思う。後から獲得する、本能に似た欲動設定のコツだと思う。昔と違って今の人生は無設定になってしまった。生まれつきの自分の役割から、適性による選択ができるようになってきた。それが自由の刑だと思う。

人生はつらいということは変わりがないらしい。何がつらいのかが変わったのだ。そこで活力を抑えるとニヒリズムに陥る。鬱はブレーキのせいでダブルバインドに陥るのではと思う。だからニーチェは活力を人生に使えといったのだろう。そのためには意志だと思ってしまうと正体不明。単に整流すれば、環境に負荷が高い消費から人生に活力を向けられる。日本では規則正しさとかやせ我慢とかいっていた時があった。そんな時代になったら省エネという言葉が不要になるかもしれない。


やりたいことをやる、楽しむとしたときに、ブレーキをかけずにゴールラインを超えてしまうような人はうまくいくだろう。やりたいことをやるおかげで余計なことをしない。結果的に整流されている。でも僕なんかはそんな暴走できない。だから自ら整流する痩せ我慢をしないと、まともに流れが整わない。天才と秀才は、こういった差ではないかと思う。

答えを与えあう時代でもあるけれど、ある意味では顧客化の勧めでもある。そうして答えを求める面クリア、目標と結果にしか目がいかくなると、見えている先の見えなさに不安になるのでは。地位という価値観に沿う、仕事に対してはいいかもしれないが、ふと立ち止まることが恐ろしくなってしまわないか。巨大道路が敷かれているなら高速に引かれていけばいい。ドラッグレースにブレーキなんか必要ない。Drag まさに引っ張られているのであれば。

適性によってはそうではないと思う。僕は天才じゃない。変化のある道をいくなら、こういったことはしないというブレーキも使いこなさないと、クラッシュするのではないか。

道を見て判断する私の能力にあたるオリジナルの計測力がないことが問題ならば、「それをやればいいけど、ここに関しては甘いんじゃないか?」みたいな言葉が、多様化と格差解消につながる気がする。


でも周囲から、社会から認められようとする気持ちはわかるし、むしろ人間とはそこな気もする。それがなければ孤立していくし、本当にほしいものなんて人間同士くらいしかないのに、それが手に入らないのなら大外しなのかもしれない。多様「化」のジレンマだ。ただ、地位ではない知は、僕は勝手に努力して上げてきた。まだこの世から、努力か我慢みたいなものは消え失せていないだろうと思う。内面の枯渇を外から補充するところもあるけれど。

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