いい子に育てることはそんなに効果的なのか?

いい子に育てる的な感覚が、この30年くらいかな、デフォルトになっていると思う。それでその結果私たちはどうなんだと考えると、確かにそれ以前とは違うことになっていると思う。

しかしインターネットだとかが普及した。そもそもそれ以前以後で生活が違うのだから、人への影響はそっちじゃないの?とも言える。言えるし、むしろそういう方がこの手の話の主流かもしれないし、説得力があるかもしれない。

でも今回はそうしない。もっと時代はばを広く、いつの時代の人間さんも突っ込める話をしようと思う。でも1行で終わるけど。

「いい子に育てたからっていい大人に育つとは限らないし、いい人生とも限らない」


僕は教育の話に胡散臭さを感じるんだよ。子供時代のみで考えている。まるで大人になったら学ばなくてもいいかのようだ。子供時代のみ学んで、大人になったら働かなきゃいけないんで学ばない。分業、みたいな発想。

子供は下で大人は上。上がえらい。えらいやつが下の者をコントロールする。「いい子にしてやる」 権威主義がニコニコしただけだよ。

「いい子」はだいたい周囲と似たものだろう。いい子イメージの範囲に収まる。しかし適性の発揮は人それぞれ。幼少期の親友と全く別の成長を多くの場合はするはず。(幼少期に親友がいる場合)

いい子になるよりも、自分の核の部分、要は「適性」との出会いの方が人生にとって価値があるはずだ。


適性ってなんだろう?体から出てしまうもののような気がする。現象化してしまうもの。

「士農工商」てあるけど、身分制度としてではなく、職業ノリで分けて考えるときに便利。「士」は武士とかではなくて「先生業」が主になる。

僕は「農」「商」向きじゃない。農はプロジェクトが数年単位だから僕にはできない。「商」もね、やったらいいのだろうけど、テンションは人よりも熱くなることがない。

「工」は二次産業だけでなく、職人仕事的なものもある。僕は図画工作が得意だった。カーメカニックでは上位に成功した。手作業、手の感覚、そういったものが向いている。あとは熱が上がるということでは勉強も好き。今はこっちが活かせないかと模索している。


世の中に合わせるのではなく、自分の身体に合わせる。もっというと自分の精神に合わせる。

仕組まれた世界の傘下から外れて、自分を使いこなす人生。善と悪の戦いの世界から抜け出した、ライトで人当たりのよいアナキズム。というか昔の日本の庶民。

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