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読書会:『ほんとはこわい「やさしさ社会」』

読書会に向けた一人読書会。今回の課題図書は、

 森真一(2008)『ほんとはこわい「やさしさ社会」』ちくまプリマー新書

重要だと思ったところと、気になったところをあげていく。


"やさしいきびしさ"はやや古いタイプのやさしさです。
"いまきびしくしないと、将来、相手が一人前にならなかったり、恥をかくかもしれない。だから、傷つけるかもしれないけれども、相手のことをほんとうに大切に思うなら、ここはきびしく接することにしよう。傷は、いつかは治るのだから"という態度です。

pp.16-7

以前は確かにこうだった。そこで僕は大人しくしていてやり過ごした。というとこのやり方がまずいように思えてしまうがそうではない。いつも近くにいる大人がいなかった。たまにしかいなかったから大人しくやり過ごしたのだ。やさしさが変わったのと同時に、大人だとか社会の様子が変わってしまったのだと思った。


「謝るくらいなら、最初からするな」/そこには、"相手を不快にしたり、傷つけたりしないよう、いま全力を上げて努力しろ!" "もしわたしを傷つけたら、許さないぞ"という厳しさがうかがえます。

pp.21

変わり出したのは1970年前後らしい。70年代生まれなので、なるほどと思った。同じころ「ものはいつか壊れる」とよく言っていた。大事なものをこわし悲しくて泣いているとそう言われた。逆にいうと壊れるまで使っていた気がするし、値段なりでそこそこ壊れた気もする。いいものは壊れないみたいな感じがあった。その頃を思い出すと今は壊れない気がする。つまり子供がいじっても壊れないと思う。関係あるだろうか?


キャラかぶりは恐怖です。

pp.62

本に線を引いたところはこの間もたくさんあったのだが、多すぎるのでひとまとめに、これ。キャラかぶりを恐れる。同時に読んでいる本があって、その2冊と内容が重なった。ジル・ドゥルーズ『哲学とは何か』、ボリス・グロイス『アート・パワー』

この本は私たち個人の話だが、哲学もアートも、一つひとつが違う。アートがわかりやすいが、既存のものと絶対にキャラがかぶってはいけないのだ。美術館:権威がコレクションをしているということは、これ以外という証明をしている。アートと思える要素と、今までにないという新しさがあって、認められた時、歴史に仲間入りできる。現代は、かぶってはいけない。ニッチ獲得。そうしないとなにかインチキくさく感じられてしまう。

だからあの人に「ああ、キムタクの真似なんだ」といったら2度と受け付けてもらえなくなったのだ。みんながそういったキャラを演じて、私たち物語?ごっこ?をしているのだと合点がいった。そういうのを知らずに、壊しまくってきたのだろう。漫画もテレビもドラマも映画も何も縁がなかった人生だから、だから浦島太郎だったのだ。そういう理由でどこでも嫌われて、孤立しているんだなと。


先祖代々継承してきた土地で生きる以上は、イエの名誉を守り、血筋を残すという目的を優先させるしかありません。/「強いものにはさからわず、長いものには巻かれてしまう。それは土地を守ってほそぼそ命を繋いでこなければならなかった百姓としての知恵だった」のです。

pp.74

時々考える地方問題も、この時代変化の見方でかなり見えた感じがした。見落とされていた大きな鍵だった。昔、生き方は生まれつき規定されていた。それにはそれの役目があった。だからそれを上等にこなさないといけない。今はそうではなくなった。これは西洋でも同じような変化があったと思う。ニーチェやサルトルが、それを解こうとしたと。

自由になってしまった、、、だから今、多くの人は自分を規定しようと一生懸命になっている。エリートになろうとしている。なれなければ、「自分は〜〜だ」という規定をして、人にもそう思わせようとノウハウを使う。

そんな中、生きづらさを感じている人もいるし、自分を規定しすぎるなど愚かだと考える人もいる。そんな中で、自分の適性を発見すればいいという意見が、何かも真似ではなくインチキくささの感じない方法としてある。

自分を規定する「啓発系、啓蒙系」はみんなして同じことを言ったりやったりする。リベラルアーツコンサルとかいっている人がインチキくさくてしょうがない理由がわかった。そういった「答え」に従うのではなく、内側から適性を発見したなら誰もがオリジナルだ。これは誰かがまとめた測定器を使って測るものではなく、自分自身で世界にあてる測定器を努力にて身につければ、自分の適性が無限に動きだす。それを磨けば「美術館に」飾られる。

地方に話を戻すと、地方が問題だからという前に、自分の外に問題があると考えることが問題だったのだ。だから「ここ」じゃないとなる。生き方が規定「されていない」からだ。適性を発見すればそこに向かって規定ができるのだけど、僕もそうだしたいていそうだろうけど、難しいものだ。昨日の自分を超えるキツさをやり続けられるのかというと、やる理由がわからないうちはそうはできない。企業のために生きるという規定も、全開に存在しているわけではない。


孤立せずに仲間集団を維持していく方法、それは能力の違いを隠して、みんな対等と思える関係をつくることです。その方法のひとつが「キャラ」的関係です。

pp.107

今はこうなのだなと納得がいく。ただ、新人類とかバブル世代だとかといると、物語の構成が産業界的ヒエラルキーだ。クロスを掲げたキングとその仲間たちの物語に引き込まれたのだ、あれは。なんだかそう思うと、思い出したくないかもしれない。別にいいけど。

しかし今は、私の能力、私はできるということが大事で、その中で突出しないように自然とそうしている。「お金?ないよー」「僕なんか大したことないよー」とかうそぶく。ほんとはあるよ。だから人がいうことを鵜呑みにしていたら、高くないレベルで安心することになる。


それは、"恥をかかせたりして、傷つけたら、いつでも爆発してやる"と無意識のうちに考える日本人の大量生産、という結果です。言いかえると、"自分はばかにされていないか"とつねに気にする日本人の大量発生です。

pp.114

なるほど。だから、相手の話に合わせないとまずいのだ。会話で、どう思う?みたいに問われたとき、思っていることをいうと嫌がられるのだ。考え出した時点で相手の様子がどこか変になるのはそういうことだったのか。その時は僕の意見を聞いているのではなく、その人の意見でいいか?といっていたのだ。

だから僕は、みんなして同じことをいっている人たちの様子がなにか変だと思ってしまうし、その問われたときは組合員の合言葉を返せないといけないのだ。でも別にばかにしてなかったけれども。


楽しさ至上主義は、"いつでもどこでも楽しくないとだめ"、"人生は、楽しいのがホント"という思想でした。この思想は、非現実的です。人生がいつも楽しいなどということはありえません。楽しいこともありますが、かなり少ないです。

pp.153

本当にそう。人生は無設定なはず。自由になったのだから。人生は楽しいのではなく、人生を楽しくすると思えなければどうにもならない。僕はこういう。楽だから楽しいではなく、難しいから面白いを求めていかないと、と。

楽な楽しさを求めるとそういつまでもうまくいかないし、結婚したらそうではなくなったなんて話はザラにある。楽しいはず、という現実は特にない。つくることでそうなる。

そうやって他責というか、自分の外部が良いか悪いかになってしまうと、世の中の〜〜が悪いだとか言い続けてしまう。それもそうだと思うけれど、また同時に言い続けてもどうにもならないとも思う。早く自分に難しいチャレンジを課していけたらいいと思う。でも自分に合うものでだ。だから面白いことをやらないといけないんだ。

自分を楽しませるものを(治療的な意味や、気晴らし的にはとても良いと思うけれど)、いつまでも欲しがっていたらだめだ。欲しがるのではなく生み出さないといけない。


ますますやさしい社会になろうとしている現在、あるいはますます「楽しければそれでいい」と考えるひとが増えている現在、むやみに攻撃の有用性を唱えることはとても危険です。それに便乗して、攻撃をエスカレートさせるひとがあらわれると予想できるからです。

pp.170

2008年に出た本で、すでに書かれていた。集団化ものがたりでデモが行われた。友人が飲まれて表情までおかしくなっていた。なんとか止められたみたいでよかったけども、こういったものは次から次だ。必ずしも怒り気味とは限らない。ニコニコして、これでいいのだよと都合の良いことをささやく。都合の良い設定なんてあるわけがない。無設定だ。それじゃ対処的だし取り返しつかないことになる。

「〜〜してね。(しないと迷惑だからね)」といっても全開で言い訳を"探してくる"。好き嫌いで決定して、嫌いなことにはいくらでも理屈をつける。それではいくら投票で決めても何も効き目がない。怒りの対象は鏡の自分だ。


この本はほんとうに良かった。聞いても答えてもらえない謎が明らかになった。

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