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世の中を変える話

地方のイノベーションの話に注目がある気がして、書いてみようと思って。よく見かけるタイプの話にはならないと思うけど。日本語の性質、日本語話者の性質だとかを加味して、語ってみようと思う。その前に少し寄り道。

英訳に挑戦して

去年は英語学習本の当たり年で、年初めから英語の本を翻訳しながら読むことにした。時間がかかるので挫折するかもだが。ともかく、日本語と英語は世界観というか、思考の構成が違うと思う。

シンプルに言えば英語は、上部の一点に顔を向けている感じがする。要はキリスト教圏の言葉なんだろなって思う。日本語はそれと比べたら視線は横向きで、やおよろずな思考で、そういう世界が理解しやすいのだろうなと思う。

つまり、欧米思想をそのまま持ってきても、浸透しにくいことが多いだろう。日本語話者は未来を想像するより、他の実例や過去の方が想像しやすい。と思った。

まずそういったところ。

日本語で未来を語る方法

そう考えると、未来を考えるとか、将来をどうだとか、そういう話は浸透しにくいのだろうと思う。それよりも、「例えば」とか「他には」とか「あっちでは」とか、もっと現物ぽくするとか過去形にするとかの方が浸透するのではと。

「戦後にJR駅ができてからこの辺りは変わったけれど、もし今の時代にその開発があったのなら、こうなったのではないか」みたいな、一回過去に持っていた方のが、日本語話者には想像しやすいのではと。

それに社会に関心のある人はある面、過去の自然さを見ているではないか。日本語話者が状況を変えるのは、過去を通るという風な傾向があるのではないか。

すでにあるものを捉えやすいから、都市でやったことが広まったり、逆にやるしかなくてやりだした末端的な地域がやったことが、広まるのではないか。

これが僕の考える、日本語話者の性質だ。

媒体の性質

でもわりと若者はそうではない、と思われるかもしれない。これは媒体の性質の違いではと考える。シンプルにいうとテレビかネットかみたいな。

それと言語での伝達と画像での伝達。本やラジオか、インスタやYouTubeか、みたいなところ。まずは、テレビとネット。

媒体の癖は、テクノロジーの高効率な使い方が、淘汰的にされるようになっていくということ。SNSはこう使った方が効果がある、ということをみんなやりだす。そしてあまり効率の良くないやり方では埋もれてしまう、ということ。

情報の性質を考える。内部向けは「遠浅」な方が効く。その外部に向けるなら「ささり」が効く。例えばアメリカ国内向けのテレビ女優であれば、「アメリカの娘」の理想であったり誰でも想像しやすい大枠パターンを発信した方が、広くうける。

でもハリウッド女優はアメリカ国内だけでなく、外国でもうけなければならない。アメリカでわかるーという遠浅パターンではなく、もっと具体化した、ささりな発進をすることになる。

そうして国外での支持も手に入れる。日本もだけど、オーストラリアだとかも、言語が同じなだけに特に、ささり情報はささる。テレビ情報は「遠浅」ぎみ。ネット情報は「ささり」ぎみ、ということだ。

ネットマンさんは、ささり過多ではあると。そういったアンバランスは日本にあると思う。

言葉とイメージ

日本「語」では、具体例が伝わりやすい。つまり過去の成功例だとか、史跡を指して歴史上のことと照らし合わせるだとか。社会革命は、フランス革命や社会主義革命よりも、一向一揆の方が想像しやすいだろう。過去を想像しやすいのではと。

でも言葉ではなく、画でとらえることもできる。画で未来を想像させることもできる。これは日本語話者の思考回路とはまた別の回路を使うはずだ。

「インターネットの」「画像に」強く影響を受けた人と、「テレビ、ラジオや街中の」「話に」強く影響を受けた人とでは、想像の構造が全然違う。思考構造が、片や縦型、もう一方は横型と。

なのであまり強引に押しても平行線が続くだけ。自分は縦型ばっかりだなと思えば横型の思考も鍛え直してほしい。つまりネットマンも、本で勉強することは端折らないでほしいし、未来に持ち上げるだけでなく横にずらすことでも変化が起こせるという構成があることをわかってほしい。

言語と非言語

非言語も重要だが、注意が必要だ。その前に、非言語伝達が街中にあった方がいいということでは、紙のポスターだとか、現物化した画などを考えてもいいと思う。ネット内だけで画があっても届かない人たちは多いということだ。

非言語に注意というのは、それでは説明が足らないと思うからだ。伝わらない言葉かもしれないが、「暗黙知」というものがある。これは言葉で説明しきれない、高度な捉えだ。

考えがデカすぎると言葉にできない、という風か。でもこの感覚があるから、ある意味での予言的なことを考えられるのだ。ということはこういうことなんだろうなという、勘だ。問題解決には必要になる。

これを支えるのが、言語で理解できることで、これがたくさんになって束なると、言葉で語りきれない勘になっていく。つまり言葉がたくさんになった後に、生み出される勘があるのだ。

だから読み書きはたくさんやってほしい。現実空間的な思考は耳から入る話ではなく、目で読んだ言葉の担当なのだ。聞くだけでなく本を読むと、鍛えられるところが違うんだ。


それとは逆に、具体的な話や、マニアな細かい話もある。どちらが上下とかではなく、どちらもアリだけど、一度に全体をとらえることはできない。

僕はコーヒーが好きだが、あんまり細かいことを語られても、どうでもいいと思う人は少なくないだろう。美味しけりゃいいよと思うだろう。こっちの場合は細かい話になるが、細かい話も時と場合で、語らずに感覚でいい。

非言語(または感覚)にはこういった、ミクロなものやマクロ(巨大)なものがある。この場にそれはいらないよといったずっこけが多いな、ということで非言語でいいよという風潮があるのではと思う。

でも。言おうとすることが言葉にできないなんて苦しいものだ。例えば原始人が現代に来て、性格的に問題はないとして。でも言葉で伝えようとしてもできない。悲しい声をしたり怒った声をしたり、そういう風に伝えるのではと思う。

言葉では伝えきれない。言葉がなければ、相当腹たつと思うよ。まあ、スキンシップに頼るだろうとか、横のずらしはあると思うけど。ね、日本語思考の「例えば」「横にずらす」

時と場合で、必ずしも非言語がよし、ではない。言葉は多くていい。出しどころ間違えんなよっていうだけだと思う。

おわり

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