【チラ裏的書き散らし】消えたい、でも死なないと決めている、でもやっぱり消えたい/私は運だけは良いらしい

夜中に書いた書き散らしを大した推敲も無しにそのまま投下してしまいます。たまにはこういうのもいっか、と思って。
お腹の調子が良くなったからなのか、薬が良く効いてるだけなのか、メンタルはだいぶ安定、感情がフラットに。
しかし今日(というかもう昨日だ)はベッド上で1日何もせず、でも頭は疲れない程度に動き続け、ふわふわもやもやと考えが出続けるので、書き出して一旦頭を空っぽにしようという目的です。
(変な時間に飯食ってまだ寝られない、というのもある)

長文での書き散らしで多分読みづらいです、しかもタイトルでもわかるかもですが大半はあんまり上向きな内容ではないです。
ネガティブな投稿が苦手な方は回れ右。


☆☆☆☆☆☆☆

昔から、正確な時期は思い出せないけど子どもの頃から、ずっと「死にたい」と思って生きてきた。
厳密に言うと「消えたい」、というか「最初から存在を無かったことにしたい」という感じ。

死にたい、消えたいの思いに繋がったであろう要因はいくつか思い当たるものがある。
ただ、どれもとても辛い出来事(辛い環境が長期間続いた、という感じ)だったので、できるだけ忘れようと過ごしている。
(なのでここでも詳細にはあまり触れないことにする、自分が辛いので)

ただその辛い時期の中で、自分の無力さを何度も何度も深く痛感したために、自己肯定感とやらは育まれず、「自分は他人の倍以上頑張ってもようやく人並みにしかなれない」と自己を認識するようになった。
そこにマイナスの感情はほとんどなく、「そういうもの」として受け止めていた。

この世の中に生きるなら、他人の倍以上、頑張るしかない。それができないと世の中に迷惑がかかる。そうなるくらいなら、消えたい。というか、最初から無かったことにしたい。

これが私のスタンダード。
この自己認識になんの違和感も感じていなかったし、もはや普段は無意識ですらあったと思う。生きた人間は呼吸をする、夏は暑い、鉛筆は筆記用具である、とかそんな事実と同じレベルの扱い。

意識的になるのは、やはり人生が上手くいっていない時だ。
「そもそも自分は迷惑な存在なのに、なんでまだ生きてるんだろう、早く死んでしまいたい、消えてしまいたい、大体なんで存在しているんだろう。」
多々悩んだ後、なんだかんだこの考えに最後は行き着く。

ただ「痛いこと」や「怖いこと」などが全般的に苦手なので、結局これまで自ら死ぬことなく生きてきている。(後述するが、後に「自ら死なない」と決意した、というのも一応ある)

ある時、友人から、「もっと自信持ちなよ!」と言われたことがある。
その時は別に、人生の不調の時期でもなかった。
しかし無意識に前述の考えがあって、恐らく私はそれに応じた人間関係、コミュニケーションを取っていたのだと思う。自虐的な発言をしたとか。多分。
言われた当時は、正直ポカンとした。純粋に、素直に生きていたら、突然そんなことを言われてしまった。何がいけなかったんだろう?と。それくらい、私にとっては当たり前の事実だった。 

そんな考えが少しだけ変わったのは、祖母がポツリと呟いた言葉だった。

それは私が社会人になりしばらくしてからのこと。
とある事故のニュースを見ながらだった。
「同じような事故が近くで起こったら嫌ね。私はもう十分に生きたから死んでもいいけれど、みんなが被害を受けるのは辛い。」

嫌だ。
私はそう思った。
もう十分に生きたから、って何?
祖母に死なれたら、私が辛い。

完全なるエゴ。
だけどこれが素直な感想だった。

その後その言葉を頭で反芻しているうちに、自分にも、死んだら同じように辛いと思ってくれる人は周囲にいるだろうか?と考えるようになった。

少なくとも両親は、思ってくれそうな気がする。
だとしたら、両親がいるうちは、できるだけ生きといた方がいいのかもしれない。
私のせいで辛い思いを強いるのは、私の本意ではない。
決めた。自ら死なないようにしよう。

※子どもの頃は、両親、特に母とは上手く付き合えていないと感じていた。ちょっと極端な性格だったのだ。冒頭の「辛い出来事」の一つに入れていいレベル(長くなるので詳細は省く。気が向いたら別で投稿するかも)。しかし大人になってから、ちょうど良い距離感で上手く付き合えるようになり、信頼できる相手となっていた。


とはいえ、これで自己肯定感が上がるわけでもなく、消えたい、最初から無かったことにしたい、という根本的な考えが変わったわけでは無かった。
だからその後の人生でもマイナスの波がくれば「死にたい」と少なくとも一度は思うのだった。
(抑うつ状態になると視野ってものすごく狭くなるし。酷くなると「死ぬ」の一点しか見えなくなる。それ以外は真っ暗闇)
で、ああ、死んではいけないんだった・・・どうしよう、でも消えたい。と悩み始める。それを何度も繰り返してきた。 
(余談だが、「最初から無かったことにしたい」から派生して、何らかの記録や他人の記憶に残ることを嫌がるようにもなった。これは今も年々酷くなってきている。無かったことにしたくても、すでに記録された情報や他人の記憶を改竄することはできない。だったら、今からでも極力その機会を減らさねば、と。その意味では、匿名で存在していられるインターネット上は安心感がある)

私は今、うつ病と診断され休職しているが、休職前は希死念慮が本当に酷かった。
死なないと決めたことも、すっかり視野から外れてしまっていた。

今回のうつ病のきっかけは確かに会社で起こった諸々の事案やらプレッシャーやらではあった。
ただ根っこには、この自分自身のポンコツさ、自己肯定感の無さ、があって、それが影響していると思うのだ。
以前の日記に書いた「人生の根本解決」はこの部分に該当する。

たとえ今回のうつ病が治ったとしても、根本は変わらないだろう。
根本が変わらなくても、それでもうつ病発症前のように、ある程度穏やかに生きていけるのならそれでもいい。
根本に着手すること、そういうのをカウンセリングなどで行うことも多いらしいが、私にとってのそれは冒頭の「辛い出来事」に向き合うことであり、もしかするとそれは死ぬより辛いことかもしれない。
だったら、消えたいと思いつつ、他人の倍頑張りつつで生きていくほうが、よっぽどマシだろう、と思う。うつ病再発の可能性はあるけれど。

ちなみに私の主治医は、カウンセリングには否定的のようだ。
「精神的な病気すべてにカウンセリングが必要なわけではない。下手にやると、思い出す必要のない過去まで思い出して、却って病状悪化することもある」とのこと。
その時は、ふうん、くらいだったが(そもそもカウンセリングの話も、会社からあるかどうかを聞いてこい、と言われたから聞いただけだった)、今落ち着いた頭で考えたら、本当にその通りだと思う。医者もいろいろだろうが、この意味では私は相性の良い医師に出会えたということかもしれない。ありがたいことだ。


で、こんなポンコツの私でも、「他人の倍頑張って」でもなんとか生き繋いでいけているのは、もはや「運」としか言いようが無いと思う。
大きくマイナス側に落ちた時、たいてい、私が信頼する人が現れ、何かしら救ってくれたのだ。
それは親友(と私は思っている人)であったり、恋人であったり、今の会社にもごくわずかに「心底信頼できる人たち」がいたり、あとは前述のように上手く付き合えるようになった両親であったり。主治医もそうだろう。
こういう人たちに出会えたのは、運でしかない。人との出会いなんて誰にも予測が付くことではないのだから。

酷い環境だった前職から割とスムーズに逃げ出せたのも、なんなら運が良かったのかもしれない。前職は、辞める意思を表すと引き留めのために相当詰められることで有名だった、にも関わらずだ。
環境はメンタルへの影響は大きい。逃げるべき場所はさっさと逃げた方がいい。

この運がどこまで続くのかは私にもわからない。
どこかで尽きるかもしれないし、ありがたく続いてくれるかもしれない。
ただ、根っこに不安定さを抱えたまま、これからも必死に生きていくのだろうと思う。消えたいと思いながら。












この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?