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【毒親】家族崩壊のススメ。

実家が新居になり、かわいい彼女がいて、憧れの師がいる。
順風満帆な生活をしばらく送ったと思う。

しかし徐々にホームレスへの道へ歩み寄っていた。

それぐらいの頃から母親の行動が不審になっていた。
不審な行動の原因は、単純にジワリジワリと精神を病んでいたからだ。

少しだけ母親のことを話そう。
この人は本当にかわいそうだと思う。
たくさんの兄弟の末っ子として生まれ、父と結婚する。

本人談なので深くは知らないが、
若い時はなぜか外国人に人気があり、けっこう言い寄られたそうだ。
田舎と言えど、父より都会に住んでいた。

ここでいう「都会」とは近くに商店街があり、交通がある、ということ。
父の実家は山の中で、商店街はなくやっているのかやっていないのか
わからない小さな商店が1個。
家の前にバス停はあるが1日一本でなぜか、行ったっきりである。
このバスを父は高校の時利用していたそうだが、行きはバス。
しかし家まで戻るバスがないのである。
どうやって帰って来ていたかは謎である。

2人は今で言うクラブで出会った。
派手好きな母親はクラブのような場所が好きだったが
父はと言うと山の中で育っているので
音楽がガンガンなるところは苦手だった。
父はクラブにいる間中、耳を塞いでいたそうだ。
そんな価値観や家庭環境が違う2人が結婚したのである。

母親は父親の実家とうまくいっていなかった。
父の実家が伝統を重んじるようなところや「世間体」を
気にするようなところが合わなかった。

結婚以来ずっと我慢していたのだろう。
私がまだ小学生の時、
父の実家に何かの行事でいった際の帰りも決まって夫婦喧嘩だった。

母親はこう言われた、あんな言われ方をされたと泣きながら訴えるのだ。

子供の私は黙っているしかなかった。
私は家族で父の実家に行くのが嫌になった。
行っても帰りは夫婦喧嘩になるということを子供ながらにわかっていた。

私は引越しの理由が、私の次に生まれた優秀な個体の今後の生活のためだと思っていたがどうやら実際は違うらしいということが後日わかった。
もちろんそういう理由もあるのだが、それは第二、第三の理由であり、
一番の理由は母親にあった。

母親は、以前住んでいた団地内でイジメのような事にあっていた。
挨拶をしても無視されたり、あらぬ噂を立てられて
今までなんともなかった近所の人までが母を避けたり、
悪く言うようになっていた。

それはそれは辛かったろう。専業主婦なので家から離れることもできず、
迫害し続けられ、買い物や気分転換に外に出ようものなら
陰険な陰口やヒソヒソ話をされ避けられて、孤独だった。

母は家に閉じこもるようになった。

以前はやれ友達だ、買い物だと何かにつけて外出していたが、
めっきりなくなってしまった。
そしてストレスが溜まり、
父の実家で受けた仕打ちを思い出し、また夫婦喧嘩が始まる。
もちろん父は実家のことは関係ないだろう、と応戦するのだが、
火に油を注ぐ結果となり母は父の人格否定へと論点をズラす。

「あんたの物の言い方が気にくわない」
「その言い方はあなたの親にそっくりだ」

そう言ってヒステリーを起こすのだ。

どんどん追い込まれていく母親。
唯一、お年玉を奪ってまで買ったツルシの服を着せ、
根拠のないゲーム脳を信じ育てた長男は家にはほとんどいない。
味方だと思っていた操り人形はもう手元にはいなかった。

そんな険悪な毎日が続くもんだから父はおもしろくない。
父は終始不機嫌になり、常に母の奇行と私生活に不満を募らせていた。

父のことにも触れておこう。
父はある職人の子だった。
ご時世なのか本人の気質なのか、はたまた環境なのか、
あるいはそのすべてかのおかげで立派な体育会系だった。
前にも触れたように、自分の子にはスポーツをやってほしかったようだ。

性格も堅く、道から逸れることを許さず
正しいとされていることを正しいと思え、というような人である。

父の子供の頃の夢は「飛行機の離着陸の際、誘導する人」だったそうだ。
何という職業かは知らないし、それだけを業務にしている職業があるのか、何か別の職業の中の一つの業務なのでは?とも思うが別にどうでもいい。

しかし、就職したのは公務員。
父が私にも望んだ職業だった。

「安定しているから」
「クビになることはないから」
「社会的な信用があるから」

という絵に描いたようなメリットを並べて私にごり押しする。

私は小学校の卒業文集を忘れない。

なぜかみんな卒業文集には将来なりたいものを書いていた。
そもそも小学校卒業でイキナリなりたいものってあんまりだ!
と思っていたがみんなそういうことを書いているし、
最後は決まって頑張ります、を忘れない。

私は迷ってしまって、ギリギリまで提出できずにいた。
すると家で父親に

「何で悩むんだ。公務員やろ?」と言われた。

私はもう何でもいいや、この真っ白な原稿用紙が埋まれば
それでいいと思い公務員と書いた。

そして父はこう言ったのだ。

「なれなかったら吉本興業にでも行きますって書いとけ。」

鼻で笑うように。
それは冗談とかボケとかではなく
あれはただの差別だった。

ああいう職業の人を見下している言い方で、
あの人たちが何の能力もないから人から笑われている人、
最低の職業だいう認識だった。

それと同時に公務員しかなってはいけないと私に決定付けた言葉でもある。

公務員になれなかったら最低の職業につくしかないのか、
私は悲しくなった。

そして私は父が言うように、


「公務員になりたいです。
公務員になれなくて吉本興業に行かなくていいように
頑張ります。」

そう書いた。

私は成長するにつれ、父の生活がよくわからなかった。
毎朝同じ時間に家を出て、夕方には帰宅し、
家で飯を食って風呂入って寝る。

この人は何が楽しいのだろう。
若い時はパチンコはしていたらしいが
私が物心ついた時にはやめていたし、
一時期釣りが趣味なのかなって思うぐらい行っていたが
気が付いたら竿やリールはベランダで直立し、空を仰いでいた。

父は何が楽しくて、明日の何を楽しみに生きてるんだろう。

こう言う話をするとだいたいの人は
「家族だよ」とか「子供の成長だよ」と言われるし、
「子供できたらわかるよ」みたいなことを言う。

知ってる。そんなことは知ってる。
確かに理解はしてないかもしれない。
子を持ったことがない私にはわからない。

でも私が言ってるのはそういうことじゃない。

私が言っているのは、ひとりの人間として、

一個体として、自分自身として何か楽しみや
趣味や心に決めているものや事柄があるのかという話だ。

例えば、「家族は大事だし、子供の成長が楽しみ!生き甲斐だよ!」
それはそれでいい。

「でもオレ映画大好きだから、休みの日に家族に半日時間もらって毎月一回は映画館行くんダァ!」

私が聞きたいのはこういうセリフである。
家族や子供を生き甲斐にするのがおかしいと言っているわけじゃない。

父にはこれがない。
毎日夕方帰宅しテレビを見て、風呂入って寝る。
毎日。毎日。

もしかしたらこの何もない毎日こそが
「一般的な幸せ」というのかもしれない。

父はそういう生活を理想とし、そういう生活こそが正しいとした。
私はそういう生活には憧れはしなかった。
茫漠とした分厚い圧力が私を閉じ込めるような気がしていた。

私は父と、もちろん母とも私より9つ離れた「私より優秀な個体」とも
同じような価値観や生きるための前提条件が一致しなかった。

もう家族の体はなしていなかった。

私の価値観と父の価値観の溝は現在も埋まってはいない。

私は絶対に父のようにはならない。そう誓った。

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