短編 バイオリニストと万年筆09

何かが起こるまで、私は待った。

その間、仕事で様々な家電量販店に派遣され、新しい場所へ行くたびに通用口を探した。入口さえわからない、その不安は同時に、また新しい人間関係に更新されることへの安堵と快感も含んでいた。

仕事が終わるとまっすぐ家に帰り、焼きそばか焼うどんかオムライスを作って食べた。時々スーパーで寿司を買って帰ることもあった。彼への手紙の返事が書けない間、飲酒とランニングを繰り返していたが、飲酒の習慣だけが残って、食後にワインかラムソーダを飲んだ。

そしてインターネットを開き、彼のホームページを閲覧する。ライブの情報や、新しい動画が投稿されていないかどうか確認した。トップページに表示される彼のちょっと不満げな横顔を、何回も見続けた。

変化は起きず、時がすぎた。
小説は第二稿。後半部分を推敲していた。主人公は相変わらず、上の空で雑草のあぜ道を歩き続ける、細身の主人公だった。ちょっとマザコン気味の、ドラマティックな青年ではなくて。
第二稿ではちょっと飛躍し、その青年が、風の音や雲の流れ方から天気を予測するような、動物的第六感を使い始めていた。言葉ではないコミュニケーションという意味では、音楽にとても近くなっているように思われた。
執筆の間、背後ではずっと、彼の右利き用バイオリンが奏でる音が鳴っていた。

二週間経ち、三週間経ち、そしてその時がやってきた。仕事の帰りに郵便受けを覗くと、ダイレクトメールに混ざって、一通の郵便が届いていた。ちょっと荒々しい、見覚えのある筆跡で宛名が書かれていた。左手だ、と私は思った。

「あれ？」

思わず呟いてしまった。これは国際郵便ではない。消印は東京だ。

瞬間的に体内の血が目まぐるしくまわり、汗が滲んだ。しかし、思ったよりも冷静だった。彼は日本にいるのだ。
アパートの階段を登り、二階の部屋に向かいながら、日数を計算してみた。私が前の手紙を出してから、だいたい１ヶ月が経っていた。そうは言っても、私の手紙が彼に届くまでに一週間や十日はかかっているのだろう。彼から私への返信は、都内からの手紙であれば、前日でも着く。そうすると、彼が私の手紙を見てから、返事を書くまでに逡巡した時間は、三週間程度。その間、彼は何を考えただろう。

部屋に戻ってすぐ、封を開けた。折りたたまれて糊付けされた封筒を、カッターで丁寧に開いていく。
中にはライブのフライヤーが入っていた。２３区外の、そこそこ大きなライブハウス。３組の演奏が予定されており、彼は３番目の演奏だった。ピアノで弾き語りをする女性シンガーの、ゲスト演奏として、彼の名前が書かれていた。トリということは、この女性シンガーを見に来るお客さんが多いのかもしれない。

他には何も入っていなかった。そのフライヤーが一枚。聞きに来い、というわけか。開演は１９時。夜のスケジュールは気持ちいいくらいに、ずっと空いている。ライブは３日後だ。３日前に告知、というのはなかなか攻めた姿勢ではないか。もし予定が入っていたらどうするつもりなのだ。まあ、親の葬式でもない限り、行きますけれど。あるいは、私の来る来ないに重きを置いていないだけかもしれませんけれど。
ホームページを確認すると、いつの間にか直近のライブ予定にTOKYO,YOKOHAMAが追加されていた。今回もまた、いくつかの仕事をまとめてこなすためにやってきたのだろうか。でも、この直前の更新は、やはり普通ではない気がする。急な予定変更だったかもしれない。そして、更新とほぼ同時に送られてきたフライヤー。例えば、日本での仕事を無理やりねじ込んだとか。左の音を、聴かせるために？　考えても仕方がない。行けばわかる。余計な憶測はやめておくことにした。

３日間は、それまでの１ヶ月と同じように過ぎていった。仕事をし、簡単な食事を食べ、小説を書いた。でも一つだけ違うことがある。
私は彼の音を絶対に聞き分けたくて、布団に入ってから目を閉じて、イヤホンで彼の右利き用バイオリンの演奏をじっくりと聴いた。
彼はきっと、左利き用のバイオリンを日本に持ってきているはずだ。日本行きの機内で、自分の隣にバイオリンケースを座らせている彼の姿を想像する。楽器用の席を買えば機内に持ち込める、などと調べたことが遠い昔のことのようだ。彼と出会った後の私は、今日の今日まで、ずっと彼を中心に回ってきた。

暗闇の中で聴くと、バイオリンの一音には、恐ろしいほど色々な音が混ざり合っている。低い音の中にも何オクターブも上の高音が一緒に鳴っているようにさえ感じられた。その音の厚みが脳の中にダイレクトに響くと、何か大きな、例えば都庁とか森ビルとか、馬鹿でかい建物が自分に向かってゆっくり、ゆっくりと倒れて迫って来るような幻影がよぎり、ゆっくり息を吸いながら、無意識に後頭部をまくらに押し付けた。そしてイヤホンをつけたまま、いつの間にか眠った。

３日目の夕方、仕事を終えた私はシャワーを浴びてから出かけることにした。
蛇口をひねり、温かい水の礫の中に全身を突っ込む。
自分の頭に向かって噴き出す荒々しい水音の向こう側に、自分の母親の、甲高い悲鳴を聞いたような気がした。私は思わず、換気用に作られた、磨りガラスの小さな窓を振り返る。ただの幻聴だろう。だけど、バイオリンの倍音を聴き続けたせいで、耳がいつもと違う音を、聴き分けたのかもしれなかった。

私の身体は、音を浴びて少しだけ現実から遠のきかけているようだ。

そして、１８時。
私はライブハウスに向かう。