短編 バイオリニストと万年筆12(最終話)

「お久しぶり、今日はよろしく」
バックヤードで仕事の準備をしていると、クッキーを突き返して来たアメリカ帰りの同僚が話しかけて来た。あれからこの同僚とは同じ店舗で勤務する機会がなく、久しぶりの再会だった。
「よろしくお願いします」
「もしかして、彼氏できた?」
「え」
「なんか雰囲気違うから」
「出来てませんよ」
「へー、イメチェンてやつ?いい感じだよなんか」
「ありがとうございます。御礼にクッキー食べますか」
「いやだ。もしかして根に持ってるの」
「冗談です」
私は毛先だけうっすらと茶色に染め、中を少し刈り上げた髪型にしていた。見た目を変えたのは、自分から逃げない、と思った時に、その問題にぶつかったからだ。

見た目に気を遣っている暇とお金があったら、本を買ったり映画を見たりするべきだし、何より小説も書けていないのに、ほかのことにかまけている時間はない、と私は思ってきた。でも、その一方で中身にも外見にも自信がなかった。自信がないのに、努力は何もしない。その理由は、小説が優先だから。

なんか違う、と思った。それで、髪型を変え、脱毛に通い、化粧を変えてみた。正直に言えば、きれいにすることはとても気持ちの軽くなることだったが、そして同時に、恥ずかしいことだった。頑張れば頑張るほど、それが功を奏しているのかわからず、おかしいと思われているんじゃないか、という恐怖が増した。大して可愛くもないし、スタイルも良くないのに努力しているのが、滑稽に見えないだろうかとも思った。何もしていないときよりも怖かった。何かをしようと外に向けて行動することは、こんなに怖いのだと知った。これが彼のしていたことなのだと思った。この恐怖に薄々感づいていて、私は自分にとって大切であるはずの小説を盾にしていたのかもしれなかった。

一度振り切ってしまうと少し推進力がついた。これだけ見た目のことにかまけていたわけだから、小説もそれ以上に書かねば、それこそ日々が、恐怖と罪悪感だらけになってしまう。

私は彼をモデルにした物語を完成させ、そして昨日、それを彼に送った。
彼はそれを見て怒ったり幻滅したりするかもしれない。傷つくかもしれない。その結果、この物語を世に出すのはやめてくれ、と言われる可能性を考慮して、彼の返事は待たずに小説の公募に出した。後に引けないように、してしまった。
こんなの最低だ、なんて言われたら、きっとショックで何も言葉を返せない。

けれど私は、自分の生み出した、この物語の「確かさ」から逃れられない。いや、それは逃げ腰な言い方か。逃れることはいくらでもできる。
この物語の孕む、彼を傷つけるかもしれない可能性についてあれこれと悩み、考え、私自身の気持ちが萎えてくるまで、ひたすら立ち止まって考える。この物語は自分の胸の中にしまっておくのが正解なのだ、と心の底から思えるまで立ち止まっていれば、それで事態はおしまいだ。私も後悔しない、彼が傷つく可能性もない。でも、逃れないことにした。今の私がつかんでいる「確かさ」を信じて、行動をしてみる。この物語を携えて、これが私だと言ってみたかった。

その日は、自分から逃げない、と呪文のように唱えながら仕事をした結果、また私の仕事ぶりに対して、クレームが来た。今度はしつこく押しすぎたらしい。アメリカ帰りの同僚は、また私を助けてくれた。
「カバンにクッキーを入れておくべきね」
やや皮肉がすぎるジョークを飛ばされた。
「受け取らないくせに」
「言えてる」
彼女は、大きな口を開けて笑った。私も笑った。
それにしてもこの精神状態は、社会生活にはあまり向いていないらしい。

家に帰ると、手紙が届いていた。
私の送った小説はまだ日本から飛び出していないだろうから、彼も彼で、私に手紙を書いていてくれたのだ。

私は足を洗い、部屋着に着替え、熱いコーヒーを入れてから、机に向かって手紙を開いた。

「先日は演奏を聴きに来てくれて本当にありがとう。あの後会場で反省会があったのだけれど、どうやら好評だったよう。実は世にも珍しい左利き用のバイオリンで、という話をしたら、ロックでかっこいいと言われてしまった。僕はロッカーを目指しているわけじゃないんだけれど。
横浜は、左でやりましたが好意的な反応ばかりとは言えなかったです。わかっていたけど、少し残念。でも、音に対する評価というよりは、若造が調子に乗っている、という類の批判だったから、あまり気にしないようにしたい。
それよりも聞いてください。演奏を終えてドイツへ帰ると、大きな包みが部屋に置いてあって…。添えられたカードには、早めのバースデープレゼントに、と。中を開けるとなんと!左利き用のエレキバイオリン(特注)が。いつから準備していたのだろう。一朝一夕ではこうはいかない。まだ敷かれたレールの上にいるような気がして、僕は初めてジーザス・クライスト、と英語で呟きました。母親は僕を、本当にロックの世界へ送り出すつもりでいるのだろうか。あるいは、左をもっと練習しろ、くらいの意味なのかもしれない。その真意は不明。でもいよいよ、母親とはちゃんと話してみる必要がある。
これからのこと。右でも左でも、自由自在というわけにはいかないかもしれない。左で弾き続ければ、今度は右の精度が落ちるということも考えられる。今後どう調整していくか、一体自分は何を目指すのか、時間をかけて考えていきます」

本当に悪いとは思うのだけど、彼が部屋の真ん中でたったひとり、ジーザスクライストと呟いているところを想像すると、思わず笑ってしまった。冗談みたいな話だ。彼の母親は相当周到に、プロデュース計画を整えているらしい。彼の闘いはまだまだ続くようだ。

私は窓から差し込む、黄昏前のとろんとした光を眺めながら、手紙をそっと二つにたたんだ。
左で弾けば右が失われるかもしれないことなど、きっと最初からわかっていただろう。私たちは何もかもを手には入れられない。右でも左でも、自在に書ける万年筆が存在しないように。誰のことも絶対に、1ミリも傷つけない物語も、もしかすると存在しないのかもしれない。

今夜は薬局で買った高いフェイスパックをして、寝よう。それで、そんなものにかまけている自分に焦って、新しい小説を構想する。なんだかおかしなエネルギーの生み出しかただけれど、みんな自分にしかわからない方法でバタついて、どうにかこうにか前に進んでいるのかもしれない。
ジーザスクライスト、と呟いてみる。声を殺して笑う頃には、外もすっかり黄昏。


応援いただいたら、テンション上がります。嬉しくて、ひとしきり小躍りした後に気合い入れて書きます!