短編 バイオリニストと万年筆03
仕事帰りに郵便受けで見つけた手紙。
私は帰宅するなり手を洗って、足だけシャワーで流して、湯を沸かした。窓を開けると、生ぬるい突風が頬を撫でた。夕立が来そうだ。
湯が沸く間の時間、封筒の表書きを眺めていた。海外からの手紙というと、赤と青のストライプで縁取られているものを想像していたが、いたってシンプルな、ハガキサイズほどの白い封筒だった。互いの宛名が書いてあり、青いシールと動物の切手が貼ってある(ヤマネコだろうか)。彼の書くアルファベットは、活字体で書いた方が早いのではと言いたくなるような、なんだかのんびりとした、丁寧な筆記体だった。
熱いコーヒーを入れて、それを一口飲んで、封を開けることにする。
そういうことをしたい気持ちだったのだ。「海外からの手紙を読む」ための所作。この胸の高鳴りを、小さな非日常を、なるべく荒らさず、引き伸ばしたかった。ペーパーナイフでもあれば特別感がさらに確かなものになったのだが、あいにくそんなに用途の狭い贅沢な刃物は、うちにはない(ハサミとカッターと包丁があれば大体のものは切れる)。
カッターを滑らせ封を切り、そうっと中身を出してみる。
昔の図鑑に載っていそうな、植物画の印刷されたポストカード。ドイツの街並みらしい写真。四つ折りにされた演奏会のチラシ。
ポストカードの後ろにはメッセージが書かれていた。
『先日はありがとう。あの懇親会は僕はいかなくてよかったんじゃないかと思っていたんだけど、話が出来て、とても楽しい時間を過ごすことが出来ました。
あれから京都と石川で演奏をしました。京都の演奏会は素晴らしかった。同封したチラシがそうです。写真は僕の部屋から見えるドイツの街並み。何を送ったらいいのか迷ってしまいました。
懇親会でも話したけど、僕はドイツ語も英語もちゃんとは話せないし、日本語も漢字が苦手。そういう時はバイオリンが弾けてよかった、と思うけど、バイオリンを弾いていなかったらこんなにいろいろなところを転々とはしなかったかもしれないですね』
私は気づくと、ニヤニヤしながら手紙を読んでいたらしかった。最後のは、ちょっとしたジョークなのかしら。
コーヒーを飲んで、弛緩した顔の筋肉をちょっと伸ばして、メッセージを2度繰り返して読んでから、四つ折りのチラシを開いてみた。青い空の下で、様々な出店が並ぶ、野外フェスのような光景が広がった。それはマルシェ、というらしい。確かにこんなところで楽器を弾いたら気持ち良さそうだと思った。
次に、写真をじっくりと見てみた。京都の鮮やかな青い空とは打って変わって、灰色の雲の向こうに、青みががってはいるがほとんど真っ白と言っていい頼りない晴れ間が覗いていた。手前には教会らしい建物の屋根が写っている。これ以上鋭利には出来ないほどにとんがった三角屋根の上に、小さな十字架がついている。その向こうには、同じ形の窓が等間隔に誂えられた、平らな屋根の大きな家が立ち並ぶ。二階か三階の部屋だろうか。
私はその写真を持ってベッドに寝転び、天井にかざしてしばらくそれを眺めていた。防災無線が夕焼け小焼けを流し始めた。
ドイツとの時差は8時間程度らしい。そうすると、今は大体午前10時。彼は何をしているんだろう。演奏の仕事だけで食べているのだろうか。想像の中で彼は、やっぱり窓の外を眺めている。今度は飛行機ではなく、彼の部屋で。この写真の光景を眺めている。
寝返りを打つと、急にお腹が空いてきた。何かお腹に入れたら、いよいよこの非日常が、日常に飲まれてしまうような気がして、なんにも食べたくないなあ、と私は思った。
でも、防災無線が終わる頃には冷蔵庫を開けて、昨日の残りの焼きそばをレンジに入れていた。そういうところだぞ、私よ。
口をもぐもぐ動かしながら、彼から送られてきたものをひとまとめにして、机の引き出しに入れた。そうは言っても焼きそばはうまい。
やがて激しい雨が降ってきた。もう、夕立というものもなんだか珍しくなった気がする。私は窓を開けたまま、口いっぱいに頬張った自分の咀嚼音の向こうで、雨だれを聴いていた。
続く
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