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わたしは娘だった

昨年、こんな記事を書いた。
事務作業もできず、電話も怖く、まだまだ塞ぎ込んでいた時の話だ。

その中で両親をあまり好きでない、
という話をしたけれど、今年その溝が少しずつ埋まった。

これが、わたしのメンタル不調の回復に大きな影響を与えたように思う。

きっかけはふたつあった。

ひとつめは両親へ「わたしの取扱説明書」を渡したこと。

5月に帰省することを唐突に決めたわたし。
あまりメンタルの調子は良くなく、
友人に元気を貰いに行くつもりでの帰省だった。

ただメンタルの調子は良くない、言わば一触即発の状態。
夜中にひとりで泣き出したり、死にたいと思ってしまわないかが心配だった。

そんな不安を吐露していると、同居人からの提案。

「取扱説明書つくってみない?」

ルーズリーフに書きなぐったそれは、
今まで隠してきたわたしの弱さを開示した。

・お風呂に入るのはタスクが多くて今のわたしには大変です。
 入らなくてもそっとしておいてください。
・その日の中でも体調が変化します。
 昼は動けなくても、夕方は元気だったりします。
 お出かけの約束はプレッシャーになるので、約束はできません。
・夜中に「死にたい」と泣きつくかもしれません。
 何も言わず抱きしめてほしいです。

こんなような内容を紙1枚びっしり書いた。

今まで「一人で大丈夫」「手のかからない子」
そう思われたくて、自立したくて頑張ってきた。

でも今はそうする時じゃないと、ようやく気づくことができた。

そうして弱さを開示したわたしは、
その後も親にその都度不安を電話できるようにまでなった。

ふたつめのきっかけは祖父の死だ。

実家にいる頃は毎週末、祖父母の家へ夕飯を食べに行った。
家が近いからこそできる、我が家のルールだった。

5月の帰省で会った時はいつも通りの、
お酒を飲んではへらへらした、孫が大好きな祖父だった。

それが7月末、体調が悪化し、肝硬変と診断された。
一度入退院をしたものの、あっという間に体調は急変した。

もう危ない、と母から連絡が届いたその日、
わたしは急いで新感線に乗って東京へ向かった。

そして祖父母の家に着いて夕飯を食べ終わると、病院からの最期の電話が鳴った。

食べるのが大好きなわたしを大好きな祖父だったから、
きっとわたしが食べ終わるのを待っていたのだろう。

そういや祖父はわたしが帰省すると「一緒に飲もう」と
嬉しそうに日本酒を持ってきてくれた。
家族の中で日本酒を飲むのはわたしと祖父だけだった。

でも体調を崩してからは、薬の影響でお酒も飲めなくなって、
5月に帰省する時は事前に日本酒は断っていた。

…地酒買っていって、一緒に飲めばよかったなぁ。

たくさん泣くわたしを見て、ぽん、と一瞬乗せられた父の手が暖かかった。
わたしは、やっぱり家族だったのだと思い知らされた。

両親が頻繁に連絡をとりたい気持ち、定期的に顔を見たい気持ち。

あぁ、なんとなく、わかった気がする。

わたしはようやく、「両親の娘」だと理解した。

24年間、わたしが両親へ感じていた溝。
それは「親を信じて頼る」ことができなかった、
わたしの背伸びが作っていたものだった。

うつ状態になって良かった、とまではやっぱり言えないけれど、
不幸だけじゃなくて、こうやって見つかるものがあるのは幸せなことだと思う。

寝たきりだったようで、成長した2021年。

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