わたしは娘だった
昨年、こんな記事を書いた。
事務作業もできず、電話も怖く、まだまだ塞ぎ込んでいた時の話だ。
その中で両親をあまり好きでない、
という話をしたけれど、今年その溝が少しずつ埋まった。
これが、わたしのメンタル不調の回復に大きな影響を与えたように思う。
きっかけはふたつあった。
ひとつめは両親へ「わたしの取扱説明書」を渡したこと。
5月に帰省することを唐突に決めたわたし。
あまりメンタルの調子は良くなく、
友人に元気を貰いに行くつもりでの帰省だった。
ただメンタルの調子は良くない、言わば一触即発の状態。
夜中にひとりで泣き出したり、死にたいと思ってしまわないかが心配だった。
そんな不安を吐露していると、同居人からの提案。
「取扱説明書つくってみない?」
ルーズリーフに書きなぐったそれは、
今まで隠してきたわたしの弱さを開示した。
・お風呂に入るのはタスクが多くて今のわたしには大変です。
入らなくてもそっとしておいてください。
・その日の中でも体調が変化します。
昼は動けなくても、夕方は元気だったりします。
お出かけの約束はプレッシャーになるので、約束はできません。
・夜中に「死にたい」と泣きつくかもしれません。
何も言わず抱きしめてほしいです。
こんなような内容を紙1枚びっしり書いた。
今まで「一人で大丈夫」「手のかからない子」
そう思われたくて、自立したくて頑張ってきた。
でも今はそうする時じゃないと、ようやく気づくことができた。
そうして弱さを開示したわたしは、
その後も親にその都度不安を電話できるようにまでなった。
◇
ふたつめのきっかけは祖父の死だ。
実家にいる頃は毎週末、祖父母の家へ夕飯を食べに行った。
家が近いからこそできる、我が家のルールだった。
5月の帰省で会った時はいつも通りの、
お酒を飲んではへらへらした、孫が大好きな祖父だった。
それが7月末、体調が悪化し、肝硬変と診断された。
一度入退院をしたものの、あっという間に体調は急変した。
もう危ない、と母から連絡が届いたその日、
わたしは急いで新感線に乗って東京へ向かった。
そして祖父母の家に着いて夕飯を食べ終わると、病院からの最期の電話が鳴った。
食べるのが大好きなわたしを大好きな祖父だったから、
きっとわたしが食べ終わるのを待っていたのだろう。
そういや祖父はわたしが帰省すると「一緒に飲もう」と
嬉しそうに日本酒を持ってきてくれた。
家族の中で日本酒を飲むのはわたしと祖父だけだった。
でも体調を崩してからは、薬の影響でお酒も飲めなくなって、
5月に帰省する時は事前に日本酒は断っていた。
…地酒買っていって、一緒に飲めばよかったなぁ。
たくさん泣くわたしを見て、ぽん、と一瞬乗せられた父の手が暖かかった。
わたしは、やっぱり家族だったのだと思い知らされた。
両親が頻繁に連絡をとりたい気持ち、定期的に顔を見たい気持ち。
あぁ、なんとなく、わかった気がする。
わたしはようやく、「両親の娘」だと理解した。
24年間、わたしが両親へ感じていた溝。
それは「親を信じて頼る」ことができなかった、
わたしの背伸びが作っていたものだった。
うつ状態になって良かった、とまではやっぱり言えないけれど、
不幸だけじゃなくて、こうやって見つかるものがあるのは幸せなことだと思う。
寝たきりだったようで、成長した2021年。
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