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雨が止むまで

 明日も仕事だから。

またこの言い訳を心の中で唱えながら彼女とバイバイすることになりそうだった。

 どうやら僕らには平日の夜がお似合いなようで、時間を忘れて夜を楽しみ、電車が無くなって、、、なんてことはない。いや、もいかしたら彼女が敢えて平日という限られた時間を選んでいるのかもしれない。

 土日休みの僕、シフト制の彼女。

この組み合わせって意外と難しいものだ。

 だがどんな言い訳をしても、自分は弱腰であるという事実に向き合わない限り、現実は何も変えられないという真理にたどり着いてしまっていた。

 でも、結局今夜もくだらない話を二酸化炭素のように吐き出し、彼女を口説くようなことすらまともに出来ず大した進展もないままで別れの時間がやって来たのだ。

 うん。いつも通りだった。

 6畳半の日当たりが悪い部屋で、いつも眠る前に見ているあの海外コメディドラマの主人公たちは、どうやって女との夜を勝ち取ったのだろう。あの同僚はどうやって「勝利」を掴んでいるのだろうか。

 もう何年も自問自答しているが未だ答えは見つからないと思っていた。しかしもうわかった。答えは単純。僕が弱腰なのだ。


 「結構降って来たね」

 店の引き戸を右手で閉めながら、屋根から左手を出して彼女が言った。

 「本当だね。折り畳み傘でいけるかな」

 先に出たのだから雨がどれくらい降っているのかなんてわかっているはずだというのに、僕はついとぼけた返事をしながら仕事用の鞄の中の折りたたみ傘を探す。

 だが、今日は無い、、、。忘れた。

 「あ、やべ。傘ねぇな」

 「え、マジ?確か駅から結構歩くよね?」

 「まぁマウンテンパーカー着てるし、10分ぐらいだからどうにかいけるかな」

 「え、風邪ひくよ?ウチの前まで来ててくれれば傘貸すよ?」

 こう言う時にササっとこういうことが言える彼女のことが、正直好きなのだ。だが少しだけあざといと思ってしまうのは、童貞を捨ててから何年も経ったのにそれに見合った経験値が伴っていない俺の悪い癖だ。

 まあ正直言って、それでも好きだ。

 「まじ?いい?じゃ貸りるね!」

 「うん!じゃこっちでーす」

 僕らは彼女のウチに向かって歩き出した。少し光沢のある白いロングスカートの裾が濡れてしまっているが、彼女はそんな細かいことは気にしていなさそうだった。

 僕にまだ付き合っている人がいた頃、僅かな罪悪感を抱きながら彼女と飲みに行くことがたまにあった。そんな時に限って僕は少し余裕があるのを良いことに、冗談交じりで彼女の家に入れてくれるよう頼み込んでいた。

「だって彼女いるでしょ!!」

 とか言って当時は近くにも行かせてくれなかったのだけれど、、、


 と色々な考えつつ、思い出すのも難しいぐらいしょうもないやり取りをしながら二人で歩いていると、彼女が住むマンションの前までたどり着いた。

「取って来るからちょっと待ってて」

 一度自分の部屋へと向かった彼女の後姿。近場で飲んでいたわりには丁寧に巻かれた髪が目についた。

 僕はエントランス前の屋根の下で待った。一人になった途端、雨音が鮮明に聞こえてきた。中々激しい雨だった。

 2分ぐらいすると彼女が薄ピンクの傘を持って戻って来た。

 「だいぶ女っぽいけど、いいっしょ?」

 「おす。ありがと!」

 薄紫色の細い傘を受け取った。

 「うん。気をつけて帰ってね」

 「うん!」

 ふと思った。僕はこのまま歩き出していいのだろうか。

 突然謎の迷いに囚われて、帰りの一歩が踏み出し辛くなってしまった。鼓動が強まっていく感覚は大学生の頃のあの恋ぶりだった。

 「え、帰らないの?」

 彼女は鼻で笑いながら言った。

 「や、帰るよ?じゃ!」

 僕も少し笑いながらそう言い、ようやく振り返って2、3歩いた。

 そして、軽く後ろを振り返った。

 彼女は片手で髪の毛先をいじりながら、まだそこにいた。

 その時僕はきっと、何かに取り憑かれたかのような顔をしていただろう。

 借りた薄紫色の傘を勢いよく閉じて、彼女の元へと歩み寄った。

 彼女は軽く目を見開いていたが、何も言わなかった。

 彼女の腕を掴んで軽く引き寄せた。

 もう周りの雨音は一切聞こえなくなっただろう。

 彼女の髪の香りが雨の湿気で引き立っていた。

 もう彼女はもう何も言いそうになかった。

 キスをした。

 「帰らないの?」

 僕から唇を優しく離すと、彼女はまた鼻で笑いながら言った。

 「帰るよ!その、つもりではあったけど、雨がさ、つええじゃん?」

 我ながらわけのわからないセリフだった。

 「雨が少し治まるまで?」

 「そう、一旦そのつもり」

 「本当は男子禁制だから!」

 「え、中で雨宿りさせてくれるパターン?」

 「本当は男子禁制だけどね!」

 彼女は今度は少しだけ真面目な顔をして言った。

 「まあ誰も見張ってないしね!」

 「まあね」


 明日、急に午前休取って上司に怒られてもいっかなと思った。

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