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「A2」森達也

続編です。
1999年9月にオウム真理教が対外活動を休止する宣言を出したそのあと。

じゃあ先生が死ねって言ったら死ぬんか??

教祖の命令であれば、やはりたくさんの罪なき人が犠牲になったとしても従うだろうという信者。
前提として、
神秘的な力によって、その人たちに本当に恩恵があるのだということを人間的な力を超えたところで見抜いていること、本質的な意味ですべての人のためになっていることが必要らしい。
自分の意思に反していても、そもそも修業とは自分というエゴを崩壊させるために行っているのだから、それは本望。
うーん、これはわからない。
自分の意思に反しているけど修行の目的には沿っているから私は尊師の意思に従います,ってそれは意思に反してなくないですか?
あなたたちは宗教に執着している、とかいう上げ足だってとれる。
でも論理的に正しいことは宗教上は何の意味もない。
西洋哲学みたいに論理的なステップを踏んでアウフヘーベンする思考はここにはない。

反オウムとオウムの交流

オウムの居住地を監視する目的で近くにテントを立てて見張ってた住民たちが、時間とともにオウム信者と交流を持ち、仲良くなっちゃう、っていう
住民によると、情がうつるらしい。
みんな混乱してる。あんなに追い出そうと必死だったのに、今では退去の見送りにきて教本もらっちゃう。孫みたいに心配になっちゃう。自分の道を突き進む姿勢を尊敬しちゃう。
人間じゃないと理解できないし、人間だから理解できないんだ。
このシーンは本当に価値があると思う。
この作品の中で唯一の希望だった。

でもこれは宗教ですから。私たちはある教えに基づいて行動する宗教団体ですから、仕方がないですよ。って、宗教団体の人が言う?
そんな客観的で冷静な判断ができるものか。

この映画には本当にいろいろな人が出てくる。
上からの命令にひたすら従ってどんな屈辱にも耐え、違反もいとわない警察
好奇心と正義に駆られて当事者を追い回すマスコミ
恐怖と正義感から、外にできた敵を徹底的につぶそうとする地域住民
あれ、こいつらも人間なんだ、よく見ると孫に似てるなって、気づいた人たち
気に食わない団体が近くに越してきて力んじゃう団体
よくわかんないけど親についてデモに参加する子ども
父親を死刑で亡くした娘
正解も使命もわからないけどとにかく映像に残した監督

わかりません
現世のための来世か来世のための現世か
何のために謝罪し、謝罪が何を意味し、
なんであいつらは騒いでて、なんで死刑になって
なんでデモ行進してるのか
なんで5年前まで一緒に馬術部にいたのに、今そんな宗教に入ってるのか、
会社とかいう組織のために平気でうそを書いて人を傷つけるマスコミに就職したのか
問題は山積みでした。

まとめ

無理矢理まとめます。
この2作のドキュメンタリーを見て思ったことは、
事象は分断してみたほうがいい時もあるなあということでした。善悪みたいな二項対立、オウムとサリン、現世と人生。
物事の断片をつなぎ合わせてひとつの見解を生み出す方法は一般的ですが、それによって、命題の裏と待遇が共存しちゃうみたいな論理が出てきたりすると思います。それはそれでいいんだけど、でもやっぱりよくない時もあるし、分けて考えたほうが選択肢は多い気がします。
ふわっとした学びだけど、オウムの事件と、オウム真理教という団体と、オウムの教えと、被害者と、それぞれに分けて、考えてみてもいいかなと。当然ですね。
そして、死人の口を使って話すのはいつも生存者です。
私は絶対に他人の死で自分を語りたくない。
これは最近すごく思います。ちょっとわきにそれるけど。

以上

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