分子の追求 〜 水素をめぐる産業政策
ある分子の追求が始まろうとしている。それは国々のエネルギーの未来を左右する分子である。水素原子2個からなる分子だ。
欧米では、太陽光、風力、電気自動車(EV)などが期待を背負う一方、日本では水素が大きな注目を集めている。東芝と東レは、再エネ由来の水素の製造コストを削減するための新たな技術を開発しているところだ。パナソニックも同様である。そして、関西電力はカナダからの水素購入を検討している。日本とオーストラリアの合弁企業は、水素サプライチェーンへの最初の一歩を踏み出した。岸田首相がサウジアラビアとアラブ首長国連邦を訪問した際の議題に水素も挙げられた。また、タクシー用水素ステーションが日本で初めて開業した。
読者の皆さんも、次の川崎重工のCMのような宣伝を巷で見かけたりするのではないか。水素導入に関して、大衆の支持を得ようと試みる大手企業の数ある手段の一つ、といっても過言ではない。
日本における水素の推進は、産業政策の最たるものだ。産業政策とは、国家が戦略的に重要だと考える特定の産業に対して、一連の政策手段を用いて支援することである。
冷戦後の西洋世界では、自由市場が主流であったことから、この言葉は最近まで聞き慣れないものだった。今や、産業政策は「グリーン産業政策」という形で復活し、化石燃料を基盤とするエネルギーシステムを低炭素型へと転換させるという、極めて大規模な取り組みが行われている。特に、日本の化石燃料によるエネルギーは巨大であり、2022年において日本の一次エネルギーの約85%が化石燃料由来だった。
日本は産業政策や水素に馴染みがないわけではない。1970年代から、公的機関や民間企業による水素の取り組みが行われていた。しかし近年、水素は新たな重要性を帯びる。クリーンエネルギー転換の多機能なツールとして、また国家レベルの産業政策の中核として注目されることは、過去のこじんまりとした研究開発とは明らかに違う。
2014年6月、日本の経済産業省は「水素・燃料電池戦略ロードマップ」を発表し、水素利用のコストおよび規模に関する定量的な目標を明らかにした。そして、3年後の2017年、包括的な「水素基本戦略」において、2020年、2030年、そして 「2050年頃の長期的展望」について、さらに定量的な目標が提示された。この種のものとしては世界初となるこの戦略は、政府による水素産業発展への取り組みを具現化したものである。2021年には内閣官房及び9つの省庁を含むグリーン成長戦略が発表され、成長が期待される14の有望分野の中でも、水素は特に重要な存在となっている。
そしてついに今年6月上旬、日本政府は「水素基本戦略」を改定した。
果たして最新の戦略はどのようなものなのか?その成果はどうなのか?どれほどのコストがかかるのだろうか?
水素基本戦略
日本において、エネルギーは経産省の極めて広範な政策分野の一つだ。そして、経産省は、主に産業界と学界から専門家を集めた審議会を招集し、包括的な政策戦略を議論することで、エネルギー政策を策定している。こうした審議会が政策案を練り、内閣府と国会に提出される仕組みとなっている。自民党の政治家が官僚の上層部や行政府および立法府に深く浸透している政治では、こうした提案は多くの場合、論争もなく法制化される。要するに、こういった官僚制と民主制の結び合いが日本の政策決定制度なのだ。
水素基本戦略もそのような提案の一つだ。これは、エネルギー転換における水素の役割に関する見解を示したもので、目標とスケジュールを定めている。そして昨年4月、経産省は政治家21名および各省庁の長かな成る、いかにもあくびが出そうな名称の「再生可能エネルギー・水素等関係閣僚会議」を再招集した。同会議はこれまでに2回開催され、6月6日の第2回会合で、42ページにわたる最新の「水素基本戦略」を発表した。
なぜ水素なのか?
水素の主な利点はいくつもある。水素は可燃性燃料であるが、温室効果ガス(GHG)を排出しない。一般的な蓄電池よりも長時間エネルギーを蓄えることができる媒体だ。また、理論的には、発電、建物の暖房、自動車の動力源、工業用化学薬品の生産などに利用できる汎用性の高いエネルギー源でもある。
資源不足とエネルギー安全保障に懸念を抱く日本は、水素に特に魅力を感じている。国土の狭さや山岳地形のため、再エネの積極的な導入は困難だという意識を持つ人が多い。そんな中、水素は太陽光や風力に代わるクリーンエネルギー源として、日本の気候変動対策の中核に位置付けられている。水素は、再エネや化石燃料から様々な方法で製造可能で、日本が現在も大きく依存している石油やガス輸出国以外の地域でも作れる。また、水素はエネルギーキャリアとして使えるため、再エネポテンシャルの豊富な国と提携し、効果的に海外から再エネ電力を「輸入」することができる。言い換えれば、日本は水素を通じて再エネ発電を「外部委託」することができるのだ。
さらに、水素は燃料としてだけではなく、工業原料としても利用できる。つまり、さまざまな経済分野で利用することができる。
そして最後に最も重要な点がある。 日本は、再エネから水素を製造し、燃料へと変えるために必要な技術、すなわち燃料電池で先行している。
「水素社会」という願望
「水素基本戦略」は、これらすべての利点を活用することを目指し、「水素社会」を築き上げる願望を唱える。
戦略で最も重要なのは、水素の価格を下げ、現在の液化天然ガス(LNG)の価格と競争できるようにすることだ。 さらに、2030年までに、水素を1Nm3あたり30円に、2050年までに20円にすることを目指している。(戦略は、2023年3月、LNGが日本で1Nm3あたり24円であったことを指摘している)岸田内閣はこの目標に向け、今後15年間で15兆円超の官民投資を行い、水素の利用を促進したいと考えている。
需要面
政府は、水素活用の大幅な増加が、この価格の引き下げをもたらすことを期待している。当戦略では、2030年までに経済全体で300万トンの水素を使用することが提案されていて、2040年までに1,200万トンとなる見込みだ。そして2050年には2,000万トンにも達する。これらの数字にはアンモニアの使用も含まれるようだが、水素とアンモニアの内訳は示されていない。
この大量な水素は一体どのように使われるのだろうか?戦略では、発電、輸送、製造、金属、化学、家庭など、経済全般にわたる分野が水素で活用されることを想定している。
発電分野においては、同戦略は2030年までに大規模発電所が30%の水素(残りは天然ガス)で稼働可能になることを望んでいる。現在、石炭とアンモニアの混焼が20%で試験的に進められているところだ。政府は、将来この数字が100%に達することを期待している。その間に排出される残りの二酸化炭素は、CCSによって分離されることになるだろう。
また、交通部門においては、2030年までに80万台の燃料電池自動車(FCV)を普及させ、1,000カ所の水素ステーションを建設することが目標だ。さらに政府は、日本製の燃料電池を車、鉄道、船舶、家庭、事務所、工場などのエネルギー需要に応えることを目指している。そして、「世界の市場で、我が国の燃料電池が "いつでもどこでも入っている" 状態を作り出すことで、この分野でのプラットフォーマーとしての地位を確立することを目指す。」(p. 16)とまで言っている。
一方、産業分野では、水素がセメント、金属、化学製造の過程で、原料、還元剤、燃料として使用されることを想定しているようだ。水素の運搬体であり、それ自体がGHGを排出しない分子であるアンモニアは、多くの用途の燃料や原料として大きな役割を果たしている。
日本政府がこれらの分子に寄せる信頼と責任は計り知れない。水素社会 〜 これがそのビジョンを象徴する政府のバズワードだ。
供給側
水素需要のビジョンが国内の社会経済そのものを変換するかもしれない一方、水素供給の計画は、エネルギーの世界地図を変えてしまうかもしれない。
つまり、基本戦略の言葉を借りるならば、水素を大量生産し、自国市場へ運ぶための「大規模で強靭な」サプライチェーンを構築する必要があるのだ。そこで政府は、今後15年間で15兆円の官民資金を投入することを目指している。その資金は、JOGMEC、国際協力銀行、日本政策投資銀行、日本貿易保険、そしてまだ設立されていないGX推進機構といった公的機関から提供される予定だ。これらに加え、約8.9兆円の国債による支出が行われることになるだろう。
日本が水素に対して見出している利点の一つを思い出してほしい。水素を資源豊富な国で生産し、エネルギーキャリアとして日本に輸送できることだ。日本の水素サプライチェーン構築の願望は、島国を遥かに超えたエネルギーの政治経済に影響を与えるだろう。サプライチェーン構築のために計画されている資金の多くは海外へと向けられ、もうすでに日本企業は水素の生産・輸送のためのインフラを構築するために海外のパートナーと組み始めている。
こうした水素産業政策の対外的な部分は着実に進行している。そして2017年、日本の大手企業4社が、ブルネイから日本へ水素を輸送する世界初の実証プロジェクトを開始した。2020年12 月に天然ガス由来の水素を日本へ輸送するために必要な国際間サプライチェーンの実証が達成し、2022年2 月に初めての輸送が行われた。
2018年、川崎重工業はオーストラリアのビクトリア州で、電力会社AGLと共同で石炭ガス化実証プラントの建設に着手した。実は、つい数カ月前、このプロジェクトは日本政府によるグリーンイノベーションファンドから資金援助を受けたばかりだ。(石炭由来の水素にグリーン資金を注ぐのは実に皮肉)
アンモニアはそれ自体が燃料であると同時に、水素そのものよりも輸送や貯蔵に便利な水素キャリアでもある。日本とサウジアラビアはしばらくの間、アンモニアに関する会談を続けてきた。岸田首相は今年7月にサウジアラビアを訪問したが、そのずっと前に両国は2017年に水素とアンモニア生産について議論するシンポジウムを開催した。そして今年4月、アンモニアがサウジアラビアから日本に始めて輸送された。
言うまでもなく、これらすべては国家による莫大な介入を必要とするものだ。このサプライチェーンを構築する技術の多く(電解装置、水素輸送に適したパイプラインおよび船舶、化石燃料ベースの水素製造を可能にするCCS)や需要側(水素ガスタービンなど)は、未だ初期段階にある。政府や公的支援機関は、こうした事業を補助金や保険で支援する役割を担わざるを得ない。
外交面においては、日本政府は水素の国内消費に向けたサプライチェーン構築のため、さまざまな国との協力覚書(MOU)に取り組んでいる。このような外交政策は、民間企業の長期投資に必要な経済的確実性を提供するもの。そうすることにより、政府は日本の水素関連技術が国債水準となることに期待を高めている。
誤った道を突き進む水素基本戦略
日本が水素社会の達成を急ピッチで進めていることは事実だ。だが、誤った道をまっしぐらに突き進んでいるのではないかと懸念する理由はある。ここでは、その中の2つについて触れておこう。
まずはGHGの排出だ。これについては既に述べた通りである。同戦略は、長期的(おそらく2050年近く)には再生可能エネルギー由来の水素の必要性を説く一方で、天然ガスや石炭から製造された水素(グレー水素)や、化石燃料由来の水素で炭素を回収したもの(ブルー水素)に関しては、近い将来においては完全に容認しているのだ。
グレーまたはブルー水素に頼っても、GHG排出量の削減には繋がらない。その水素が天然ガスとの混合あるいは石炭との混焼に使われる場合はなおさらだ。また、それは明らかに既存の石炭火力発電所を長引かせるものである。さらに深刻なことに、日本のエネルギー企業は次々と新しいプラントを建設しようとしているのだ。
さらに陰険なのは、この種の水素のライフサイクル排出量だ。自然エネルギー財団はこの点について痛烈に批判している。国際エネルギー機関のデータを基に、財団は次のように説明している(p.9):
僕はこれを読んで目を疑った。すなわち、製造、転換、輸送に伴う排出のせいで、CCSを使用しない化石燃料由来の水素の場合は、単に天然ガス燃焼による発電よりも排出量が多いのだ。これをクリーンエネルギー戦略と呼ぶのは、まさに愚の骨頂である。
それはあくまでグレー水素のことだ。同戦略は、ブルー水素についてどのように考えているのだろうか?2017年のものとは異なり、改訂された戦略では、低炭素水素の基準値を1キロの水素あたり、3.4kg以下のCO2排出のものと定義している。しかしながら、自然エネルギー財団は他国や民間団体が定めた基準値との詳細な比較において、「主要国の中では、日本の 基準値は最もハードルが低いものであることがわかる」(p.4)と結論付けている。
たとえ日本がより厳格な基準値を遵守したとしても、水素製造から排出される二酸化炭素を回収することは、依然として気候変動の解決策としては二の次以下であることが、現在入手可能な最善のデータによって示されているのだ。自然エネルギー財団は、国際エネルギー機関のデータを参照に、CO2の大部分が回収されたとしても、ブルー水素からの排出量は、グリーン水素製造の排出量を大幅に上回る、と指摘している。
また、2021年に『Energy Science & Engineering』誌に掲載されたロバート・ハワース氏とマーク・ジェイコブソン氏による学術研究によれば、ブルー水素のGHG排出量は、天然ガス火力や石炭火力での発電よりも20%以上多いことが分かった。
覚えておいてほしいことは、これらの結論はライフサイクル排出量を指すということだ。グレーまたはブルー水素が日本に輸送されれば、その水素自体はゼロ・エミッションとなる。しかし製造・輸送過程の排出量がハンパじゃない。つまり、水素製造を他国に委託することで、日本はクリーンであると主張できる。貿易相手国に排出を押し付けているのと同様なのだ。
イギリス出身の経済史学者アダム・トゥーズ氏は最近、気候危機という緊急事態の中、国家の強力な介入が必要となる一方、日本の水素戦略のような産業政策は危険な落とし穴に近づいていると指摘した。
水素をめぐる産業政策はすでに世界各地で始まっている。そして日本もその大きな流れにしっかり加わっている。政官業のエリートは、水素社会の実現に向けて圧倒的な資源を注ぎ込む。この先数十年にわたり、政府は水素のサプライチェーンと利活用の開発に何兆円もの資金を投入する予定である。だが、これらの分野の多くにおいては、再エネやEVによる電化の方がより効率的で安価な脱炭素対策であり、水素の製造がライフサイクル排出量をさらに増やすことを考慮すると、日本が多額な犯していることは間違いないようだ。