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短編小説『未来は続く』(4/5)

(四)

途中立ち寄ったコープで、女たちがずいぶん時間をかけて買い物をしたため、家に着いたのは17時を回っていた。
喜一郎は家に入るや否やジャージに着替えると居間で寛ぐ3人を尻目にそそくさと玄関に向かった。
ランニングシューズを履く背中に向かって益美がのんびりした調子で「行ってらっしゃい」と言う。
「お父さん、何処に行くの」
「散歩よ」
「この暑い中散歩ってよくやるわ」
背後で聞こえる益美と彩子のやり取りに、「散歩ではなくウォーキングだ」とぶつぶつ言いながらキャップのつばをぐいっと下に引くと、まだ熱気の残る表に出た。

喜一郎は半年前から夕刻のこの時間に歩くことを日課にしていた。
医者に勧められたわけではない。
テレビの情報番組で何処かの大学病院の先生が、運動は痴呆の予防に良いと解説していたのを聞いて、それを半ば間に受けたのだった。
当初はランの散歩も兼ねてと考えていたが、喜一郎が小屋の外から呼びかけても一向に外に出てこず、無理やり引きずり出しても頭を下げて頑なに抵抗を示したので、断念した。
益美が呼びかければ尻尾を振ってあっさり出てくるのだから可愛げがない。
もっとも喜一郎もランに合わせてゆっくり休みながらよりは、少し速足でずんずん進む方が性に合っている。
ランを連れてでは逆にストレスが溜まっていたに違いない。

歩くコースは決まっていた。
まず、自宅の敷地を出てすぐに右折して、農水路に沿った緩やかな坂道を下っていく。
左手には田圃が広がり、真っすぐ伸びた黄金色の稲穂が輝いていた。
それに対して、右手の方は、痩せた土が剥き出しになり雑草が伸びるがままになっている。
数年前まではこちらもこの時期、同じように稲に覆われていた。
二軒隣に住む坂下さんが耕してきた土地だったが、次の担い手がなく、耕作放棄したと聞く。
息子さんが二人いたが、二人とも神戸と大阪の大学に進学し、そのまま就職したそうで、他に引き取り手を探したが見つからなかったらしい。
ここに限らず、放棄された土地は集落全体で虫喰いのようにあちこち広がっている。
集落を侵食する目に見えない害虫の存在に、遣る瀬の無さを覚えるが、それは仕方のないことだった。

小学校のフェンスに突き当たると、右折して目抜き通りを真っすぐ進む。
まだ米屋や自転車屋が細々と営業を続けているが、最近は年を追うごとに商売を畳む店が増えており、シャッターの赤茶けた錆の色が目立つ。
店主たちは喜一郎よりも少し歳上ぐらいだったが、最近は通りで顔を合わせるとそろそろ限界だと零すようになった。
こちらも次の担い手が見つからず、余命宣告を受けた患者のように、終わりの時が来るのを静かに待っている。
こんな田舎では若者が居付くわけはなく、担い手が減っていくのは当然の流れだった。
遊ぶ場所といっても駅前に居酒屋が数軒あるきりで、それもここからは車で数十分かかる。
皆が納得していることだった。
それでも、見慣れた風景が失われていくのは少し寂しかった。

やがて建物が途切れ、鬱蒼と木々の生い茂る山林の縁に至って、喜一郎は一度そこで立ち止まった。
ここからコースは二手に分かれて、正面の石段を登ればこの辺りの氏神を祀った神社に至り、右に折れればそのまま自宅の方へ続く緩やかな坂道を進む。
その日の身体の調子に応じてどちらを選ぶか決めていた。
今日は膝に痛みもなく、疲れもそれほど感じていない。
喜一郎は「よし」と気合の一声を出して、石段のある方へ足を向けた。

境内で軽い体操を済ませた後、踵を返して鳥居をくぐると、そこから集落全体が見渡せた。
ぐるりと囲む山の、西の稜線に太陽の一部が掛かろうとしている。
下りの石段に恐る恐る左足を踏み下ろしたが膝に痛みはなかった。
俺の体はまだまだ動く。
喜一郎は最近テレビで聞いた、人生100年時代という言葉を思い出した。
人の寿命が延びて100歳まで生きることが普通になるらしい。
そうであるならば俺はまだあと30年は生きる計算になる。
彩子からはボケ老人のような扱われ方をしているが、人の世話が必要なほど衰えてはいない。
むしろ喜一郎には不思議なことにこの歳になってから人生の活力が湧いてくる気さえしていた。
若い頃と違って、筋肉はすっかり落ち、体は融通が利かなくなっているのは確かだが、それと反比例して、生きる意欲は強くなっている。
益美と二人でまた昔のように車中泊をしながら全国の温泉を巡りたい。
東京の彩子の家にも一度は遊びにいきたかったし、そのついでにスカイツリーとやらにも登ってみたかった。
先程の墓参りの時に暗く翳るものがあったが、今ではすっかり晴れていた。
そうだ、俺の未来はまだまだ続く。
そう思うといつもより足取りが軽くなり、石段を弾むように踏み降りていった。

                                                                                                           5/5へ続く

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