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短編小説『未来は続く』(5/5)

(五)

「おかえり」
戻ってくると、彩子と奈帆がランの小屋の前でしゃがみこんで小屋の中を覗いていた。
「お母さんが買い忘れたものがあるから、お父さんにお願いしたい、って言ってたよ」
「じいじ、ばあばがいぃてたよ」
「そうか、そうか」と奈帆の頭を撫でながら、内心はコープで散々時間をかけて確認したにもかかわらず、買い忘れをした益美のそそっかしさに呆れていた。
益美のやつ、やっぱり呆けてきたか。
益美に痴呆の疑いを持つのは気持ちの良い考えではなかったが、疑いを抱かせるような言動が最近目につくようになった。
例えば先週のことだ。
ゴミの入った袋を持って玄関でぼんやりと突っ立ているので、喜一郎が「どうした?」と聞くと、「今日は燃えないゴミの日よね」と言う。
冗談を言っているのかと表情を伺うが、自分でも困惑した様子で、邪気を装ったわけでは無さそうだった。
「おい、大丈夫か?」
「どうしちゃったのかしら、私」
その時は笑い話で受け流したが、また別の日も同様のやり取りが続く。
昼飯を食っていると「最近、森田さんのところのおじいちゃん見ないわね」と言う。
「あそこのじいさん、ずいぶん前に死んだだろ」
「あら、そうだったかしら」
「一緒に葬式に行っただろうが」
笑えない冗談だった。
長年繰り返してきた習慣や知人の死がふいに抜け落ちることはあるのだろうか。
喜一郎も親しい人の名前が出てこず、後からアドレス帳を読み返すことはよくある。
しかし、それとは物忘れの性質が違う気がした。
益美は喜一郎より七つ歳下で痴呆を心配するような年齢ではない、と思う。
だが、重なると不安になる。
以来、喜一郎は益美のちょっとした物忘れや取り違いに神経質になっていた。

洗面所で軽く汗をふき取って、居間に入ると、益美は隣の台所に立っていた。
小気味よく野菜を刻む音がする。
「お父さん、ごめんなさい、白滝買い忘れちゃって、下の山田さんのところで買ってきて」
「ああ」
いつもだったらここで冷蔵庫から瓶ビールを取り出してグラス一杯飲み干すところだが、今は麦茶で我慢する。
ふと益美の横顔を見つめる。
童顔だったせいか、昔から若く見られたものだが、今では頰の肉も垂れ、髪も白いものが多くなった。
当たり前だが、益美も俺の後を追って確実に老いている。
「お父さん、どうしたの」
「いや、何でもない」
白滝か、白滝なら忘れても仕方無いな。
喜一郎はまじないをかけるように自分に言い聞かせた。

空の端に夕焼けの痕跡を僅かに残して、あたり一帯薄闇が広がっていた。
この時間は物の見え方に難儀する。
加齢はまず眼にくると言うが、その言葉通りまだ体が壮健な四十代前半に老眼が始まって以降、眼の衰えが老化を常にリードしてきた。
最近は明るいところから暗いところに出ると焦点を合わせるのに時間がかかる。
彩子と奈帆はまだ外にいるようで、声は聞こえるが、見渡しても姿は確認できなかった。
表の通りまで行っているのかもしれなかった。
運転席に体を収めると、しばらく暗闇に慣れるのを待った。
「さて行くか」
シフトをバックに切り替えると、サイドブレーキを下ろして、そのままアクセルを踏み込んだ。
ゆっくり踏み込んだつもりが、思いの外、勢い良く加速し、いかんいかんと急いでペダルを踏む足を緩めた。
その時、背後から聞こえるか聞こえないかの大きさで、こつんとぶつかる音がする。
振り返ってリアガラスに視線を向けて目を凝らすが、闇ばかりで何も見えない。
気のせいかと正面に顔を戻したその瞬間、今度は獣のような鋭い悲鳴が響く。
彩子の声だった。
「なんだ」
喜一郎は何か不味いことが起きていると感じ取り、アクセルペダルから足を離そうとした。
つもりだったが、実際は喜一郎の意識とは裏腹に、足はアクセルペダルから離れていなかった。
間もなく車体の後方が僅かに持ち上がる。
「何が起きた」
漸く車が停車し、ドアを開けて半身を出したところで、間断無く続く彩子の叫びに「なほ」という二文字を聞き分ける。
後方に視線を向けると、彩子がタイヤの前で地面に両膝をつけてそこにあるものを揺さぶっている。
そこにあったのは幼子の首から下で、首から上はちょうどタイヤの下の位置にあった。
「ああ、何てことだ」
喜一郎にそこからもう一歩も踏み出す力は残っていなかった。

未来はまだまだ続く。

(了)

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