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短編小説『未来は続く』(1/5)

「青春というものを知らなかった私が、幕切れも間近にせまった今になって、かつてないほど若い自分を感じているのだ。そうなのだ、だからこそ未来は長く続くのである 」
              ルイ・アルチュセール『未来は長く続く』

(一)

横山喜一郎は、駅舎から少し離れたところに車を止めて出口を見つめていた。
次の列車が到着するまで10分ほどあった。

ラジオからは高校野球の試合中継が流れている。
実況のアナウンサーがやや上ずった声で白球が二遊間を抜けたと伝えた。
駐車場を取り囲むブロック塀に目を移すと、撫でるように陽炎が揺らいでいる。
この夏は例年にない異常な暑さが続いていた。
喜一郎は、炎天下の下で、溌剌と野球に打ち込む子供たちが健気に思われた。

娘がまだ高校生の頃、毎日、妻の益美と交代でこの駅まで迎えに来ていた。
娘の彩子は地元の高校には通わず、制服が可愛いという理由で、通学に2時間かかる私立高校へ進学した。
駅までは自転車で片道20分ほどの距離だったが、自力で通ったのは最初だけで、夏が近づく頃には送り迎えが当たり前になっていた。

入った学校はそれなりの進学校だったが、彩子はろくに勉強せず、私立の三流大学にぎりぎり滑り込む体たらくだった。
大学入学後も態度は改まらず、むしろ一人暮らしが拍車を掛け、単位不足で一年留年して辛うじて卒業した。
就職したブライダルの会社は上司と馬が合わないからと一年も経たずに辞めてしまい、当時付き合っていた男の家に寄生し、別れるとしばらく実家に戻り、また別の男を見つけて寄生するを繰り返していた。
喜一郎は益美と2人で親不孝な娘だと嘆き合ったものだった。

それが、32歳になり、友人の紹介で知り合った8歳歳上の銀行員とあっさり結婚した。
ちょうど5年前のことだ。
今では娘を授かり、夫の転勤先である東京の都心から少し離れたところに戸建てを購入して3人で暮らしている。
夫の達夫も順調に昇進していると聞く。
我が子のことながら人生はわからないものだと思う。

二両編成の列車がホームに停車し、しばらくすると彩子が、左手に大きな荷物を肩から下げ、右手に娘の奈帆の手を取って、出てきた。
喜一郎が車から降りて手を振ると、奈帆は彩子の手を切って「じいじぃー」と叫びながら駆けて来た。
まだ身体に比べて頭が大きいせいか、両方の腕を掻くように振り振りし、転びそうになるのをどうにか堪えて、バランスを保っていた。
その愛らしい姿に喜一郎は思わず笑みをこぼす。
その後ろで「危ない、走らないの」と彩子がヒステリックに叫ぶ。
足元まで駆けてきた奈帆を抱きかかえると、タマゴポーロのような甘い匂いがふわりと広がった。
遅れて歩いてきた彩子が苦笑しながら「ただいま。疲れた」と言った。
「お疲れさま。新幹線混んでたかい」
「満席だったよ。立っている人もいたから」
後部座席に荷物を積み込むと、彩子は助手席に奈帆を抱える形で乗り込んだ。
田舎の風景が珍しいのか奈帆はしきりに「あれ何、あれ何」と指さした。
「達夫さんは今日は仕事か」
「そう、明日まで仕事で、明日の夜の新幹線で来るって」
「そうか」
達夫はずんぐりとした体躯に人の良い相好をして、きつい性格の彩子とは対照的だった。
正月に会った時に、自分の腹の余った肉を指差して、彩子にジョギングやらされてますよ、と愚痴っていたが、言い方は冗談めかした調子で、まんざら尻に敷かれるのは嫌ではないようだった。
彩子は良い男と出会ったと思う。
紆余曲折はあったが、娘が幸福を得たのは、自分の人生の正しさを証明してくれている気がして、そう思うたびに喜一郎は心地良さを覚えた。

「お父さん!」
彩子の甲高い叫び声に鼓膜を打たれ、ぼんやりしていた意識が目の前に振り戻された。
白い体操着姿の学生の乗った自転車がボンネットのつい先まで迫っており、喜一郎は急ブレーキを踏んだ。
学生はブレーキ音に反応してびくりと背中を震わせ、驚いた表情をこちらへ向けた。
学生が離れていくの見届けてから、路肩に車を停車し、助手席に向かって「ごめん」と謝るより先に、「お父さん、何やってんのよ。気をつけてよ」と最近遠くなり始めた耳によく響く金切り声で非難された。
「ごめん、ごめん」
「もう少しであの子はねるところだったんだからね、何やってんの」
「不注意だった」
「前も電話で話したけど、そろそろ免許の返上も考えた方がいいんじゃないの、そのうち、絶対人はねるよ」
喜一郎はこの3ヶ月前に何でもない緩いカーブを曲がり損ねてガードレールに車の左側面を打ち付ける事故を起こしていた。
幸い車の損傷は板金修理で済む程度だったが、その時も彩子から電話ごしに強い口調で説教され、免許の返上を考えるように諭された。
喜一郎は何を言うかと反発を覚えて聞き流したが、今回は人を巻き込む事故を起こしかけただけに神妙な心持になっていた。
田舎に住んでいて免許を返上するといういうことは、ほぼ家に引きこもることを意味する。
仕事は役所のOBということで優先的に紹介された隣町にある公営体育館の事務の仕事を週に三日勤める程度で、これとて生活のため、というよりは、体が鈍るのを嫌って続けていることだった。
それも来年の3月に契約が切れる。
いとこの義孝くんも、そう歳は変わらないが、仕事を辞めて家にこもり始めてから鬱になったと聞く。
自分はどうなるかわからない。
ただ、決断するのはまだ先送りしたかった。
「ああ、考えておくよ」
喜一郎はそう答えると、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。

                              2/5へ続く



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