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短編小説『その前日』

(一)

退去通知書 ◯◯◯市
あなたは再三の催促にも関わらず、長期にわたり家賃を滞納し、また相談にも応じていただけませんでした。
市としては、支払いをされている方々との公平性の点から、市営住宅条例第二十八条第一項の規定により、下記の通り明渡しを請求します。つきましては、下記期限までに滞納家賃の納付又は当該市営住宅を退去するよう勧告いたします。あなたが明渡し期限までの滞納家賃の納付又は自主退去をしない場合は、当該期限の市営住宅の入居許可取り消し、その後の家賃相当額を損害賠償請求するほか、滞納家賃の納付及び当該市営住宅の明渡しを求める訴訟を提起することになりますのでご承知ください。

 期限 平成◯◯年九月八日

(二)

 アーケードの中は風が通らず、ぬるい空気が滞留する。こもった湿気が肌にまとわりつき、吹き出す汗と混じる。冷房の稼働している店は少なく、シャッターを下ろしたままの店も目立つ。活気のなさに反して、自転車の前カゴに夕餉の食材を乗せた女たちが頻繁に行き交う。かつては夕刻になると買い物をする女たちで賑わっていたここも、今では駅前の大型スーパーへと繋がる通り道となっている。
 野村秋枝は前かごに視線を落とし、緩慢にペダルを漕いでいた。時折ふらつき、軌道を膨らませ、後から来た女たちの進路を邪魔した。抜き際に睨まれるが、気にする素振りはなく、睨まれていることに気付いてもいない。念仏のように、何かを呟いており、睨んだ女に気まずい思いをさせる。

 サドルから尻を下ろさず、首を少し傾ぎ、目線は一点に固定されている。そばを通った人々は何かあるのかと目線の先を合わせるが、あるのは煤けたスーパーの外壁だった。唇は変わらず、餌を求める鯉のように動いている。一時、動きが止まると、頬の肉が隆起し、奥歯を強く噛みしめている。
 やがて、ほつれの目立つトートバックから、広告か何かの裏紙を使ったメモを取り出し、眉間にしわを寄せ、同じところに何度も視線を走らせる。メモは筆圧の強い神経質な字体で埋められており、左端に行ごとに番号が振られている。秋枝の焦点は七行目の《食材の購入》にあった。その右には食材の名称が並ぶ。

 秋枝にとって食肉品売り場は普段素通りする場所だった。
 角切りの牛肉のパックを手に取る。印字された値段がピンとこず、何かの記号のように見える。
 その日の朝、秋枝は娘の道子に夕食は何を食べたいかと訊いた。道子は母親からの質問にカレーライスと答えた。娘に食べさせているものはカレーライスと言えるしろものではない。肉が入っておらず、野菜を抜く時もある。ルウはぎりぎりまで薄めており、すくうと水のように垂れる。
 他の料理も同じだった。牛肉が入っていないビーフシチュー、揚げたちくわをのせただけの天丼……。道子は、秋枝と違い、外向的な性格で、躊躇わずに物事の好き嫌いを言う。それでも料理に関して不満は口にしない。小学二年生なりに気を使っていた、のかも知れない。

 レジに向かう途中、ケースに並ぶアイスクリームのパックが目に止まる。最後に買った日を記憶にたどる。六月に道子が酷い熱を出して学校を休んだことがあった。その時、熱冷ましにと思い、カップ入りのバニラアイスを与えた。粥にはほとんど手をつけなかったにもかかわらず、アイスクリームは瞬く間に平らげた。特別な機会がなければ買うものではなかった。今日買って帰れば道子は間違いなく喜ぶだろう、と思う。 

 だが、結局、手を出さない。 

 考えている《段取り》に道子がアイスクリームを食べる工程はない、と思う。数日前に《段取り》を決めて以来、思考に霞がかかっている。《段取り》の何をどう変えたらいいのか考えるだけの力は残っていない。変えようとすれば不安定に積み上げた積み木のごとく、簡単に崩れる。再び積み上げることは今の秋枝には無理だった。《段取り》に沿って決めたことを辛うじてこなしていくだけで、修正も中止も無い。

 目の前で太り肉のレジ店員が品物のバーコードを読み取りカゴへ移す姿を見ている。ピッ、ピッとバーコードを読み取る度に立つ音が文字に変換されていく。初めは『女』という字が脳裏に浮かぶ。『良』と結びついて『娘』となる。そこに『乂』と『木』と『殳』が周囲を囲んで、『娘』の上に重なって『殺』となる。『殺』に『絞』、『刺』、『撲』が結合し、『娘』を覆う。言葉が増殖して、知恵の輪のように端と端が連なっていく。死んだ夫の声で「無理して生きる必要はない」という言葉が響く。考えるな考えるなと繰り返したところで、それ自体がノイズとなって、他の音と混ざり合う。数週間前から頭蓋骨の左奥に居座る痛みが後頭部へ集まり凝固する。吐き気が喉の奥にわだかまる。その場に頭を抱えてしゃがみ込みたい衝動に駆られる。
 眼を開ければ店員が怪訝な顔で見ていた。つり銭を受け取ると、財布には三百二十五円が残る。

 交差点で信号が変わるのを待つ。歩道橋の階段の途中に老婆が立っている。老婆は、大きく膨らんだ買い物袋を持つ左手の方へ傾ぎながら、右手は手すりにつかまり、一段一段よじ登っていく。その姿は秋枝を不快にさせる。
 老人は生にしがみつく強欲の象徴だった。老人たちは散々生き長らえてきておきながら、さらに長生きしたいと当たり前のように口にする。誰も生きることを強制していない。言わないだけで皆死んで欲しいと思っている。望まれていない人たちが生き残る。
「無理して生きる必要はない。私たちは潔い」
 ここ数日何度も繰り返した言葉をまた繰り返す。

「おかえりなさい」
 道子は食卓の上で学校の宿題をしていた。四畳しかない子供部屋を狭くすることが憚られたので、勉強机は与えていない。料理や片付けをする秋枝の側に道子はいつもいた。夫が死んで以来、不安定に揺らぐ秋枝の精神が難破せずに持ちこたえたのは、この時間、この場所にアンカーを落としていたから、かもしれない。
「ご飯作るから待っててね」
「汗かいて気持ち悪いから、先にお風呂入っていい?」
「すぐ作るから待ってて」
「先に入りたい」
「待っててって言ってるでしょ」
 道子は小学二年になり自己主張が強くなった。《段取り》を考え始める前まで、それは道子が確実に成長している証として好ましく受け止めていた。感情的になって親子で喧嘩をすることはある。しかし、道子の反応を見ながら言葉を選ぶ冷静さは普段であればあった。今、秋枝の思考は《段取り》を滞りなく進めることに占められる。口答えをする道子に秋枝は苛つく。
「お願いだから言うこと聞いて」
 道子は俯いて口を固く閉じる。秋枝は自身の声の響きが尋常ではなかった、と気づく。
「ごめん、お母さんが強く言い過ぎたよ」
 悟られてはいけない。いつも通り事を進めなければならない。
「ご飯食べたあとに、お母さんと一緒に入ろ」
 予め準備していた言葉だった。道子が小学校に上がってから風呂に一緒に入ることは減った。母親と風呂をともにすることに生理的嫌悪はまだ抱いていない、と思う。もっとも、道子がどう思っていたにしても、他にどう言えばいいかわからない。道子が何と言おうが頑なに言い張るしかない。 《段取り》はもう決まっている。
 幸い道子は秋枝の言葉に頷く。

「おかあさん、今日ね、雅子ちゃんが、学校から帰る途中に市民会館の前の溝に落ちたんだよ」
「そう。それで雅子ちゃんどうしたの」
「足怪我して、血が出て、すごく痛そうだった。雅子ちゃん泣かなかったけど、絶対痛いと思う」
「そう。あそこ柵ないからね。道子も気をつけないとね」
 秋枝は食卓を挟んで道子とその日の出来事を話す時間を何よりも大切にしてきた。接する時間が少ないが故に、その日、道子が感じたこと、思ったことを聞き出す。ほんの小さな成長の痕跡でも拾い集める。それが秋枝には自分たちの生活が停滞せずに少しでも良い方向に進んでいると確認する手がかりだった。その時間が、今では不安で苦痛な時間に変わる。余計な期待も希望も抱かせずに淡々と終わらせなければいけない。脅迫観念が喉を詰まらせる。
「うん、あとね、こないださあ、友達と縄跳びが流行ってるっていったじゃん」
「うん」
「道子が今持っているの古くてかっこ悪いから新しいの買ってほしいんだけど」
 道子が使う縄跳びは近所の人に譲られたもので、持ち手の端がひび割れていた。
「そうね、じゃあ、今度の土曜日に買いに行こう」
「ほんとに。やったね!」
 『今度の土曜日』という言葉が溶けずに残る。道子の喜びを引き出したいがためについ口走ってしまった。己の安易さが硬いしこりとなり疼く。この約束は守られない。
 秋枝はほとんど口をつけることができなかった。道子ももともと食が細く、ルウを少し足した程度で、おかわりとまではいかなかった。食べ切れる量を作ったつもりだったが、鍋には一食分以上残る。
「明日もカレーだね」
「そうね」
 道子に気づかれないように、野菜や肉の断片を適当に掬って生ゴミの袋に入れ、あとは流しに捨てる。

 浴室の洗い場は狭く、二人で体を屈めても秋枝の背中は壁のタイルに触れる。道子は頭に比べて体は細く小さい。あばらの骨が少し浮いており、体が薄いせいで腹の膨みが目立つ。身長は同学年の中でも小さい方かもしれない。
「道子はクラスで背は何番目?」
「前から4番目かな。雅子ちゃんが私の二つ後ろ」
 道子の髪は随分と伸びた。シャンプーを束ねた髪に伸ばしながら、長い間切っていないことに今更気づく。髪は秋枝が切っていた。美容院に連れて行ったのは、七五三の時の一回きりだった。
 この子にはろくにおしゃれをさせてあげられなかった、と思う。洋服も、同じ団地に住む職場の同僚が娘に合わなくなったからと言って譲ってくれるお下がりを着せていた。他のクラスの女の子と比べて、自分だけが色あせた服を着ていることを道子はどう思っていたのだろうか。
 「やれるだけのことはやってきた」とここ数日自分に言い聞かせ、疑念を口にしようとするもう一人の自分を押さえつけてきたが、この際になり、「やれるだけのことはやったか?」と疑念の言葉に反転する。秋枝にはもう抵抗する力はない。
 泡のついたスポンジを道子の首筋に這わせる。
 鎖骨、そこに張った肉が愛おしい。隆起した背骨の一つ一つが愛おしい。皮膚の表面の無数のにこ毛が愛おしい。手のひらにぴったりと合う小さな尻が愛おしい。
 腕にスポンジを当てる。二歳の時、後ろに尻餅をついた拍子に石油ストーブに当ててできた腕の火傷の跡。あの時、道子は大泣きした。その時の映像が脳裏で鮮明に再生される。喉にスポンジを当てる。幼稚園の頃、喉を撫でるとニャオニャオと猫のマネをしてくれた。額にある歯形のような跡は水疱瘡の時に出来たもので、当時は消えるかしらと気を揉んだものだが、今では道子のチャームポイントだとさえ思っている。
 道子の体の一つ一つから無数の映像が立ち上がる。ほんの一秒、二秒の間に映像が泡立ち、溢れ出す。
 手が震えるのを感じる。息をうまく吸い込めずに不規則な、痙攣したような吸い方になる。視界が次第に暗く、狭くなっていく。
 秋枝は最後の《段取り》を反復する。
 ―道子の体を洗う
 ―道子を浴槽に入れる
 ―私は体を洗う、振りをする
 ―道子に湯に顔をつけて数を数えるように言う。
「どうしたの」
「いや、道子も大きくなったなあ、って思って」
「お母さん、お風呂上がったら、さっき冷蔵庫に入れてたアイスクリーム食べていい?」
「いいよ」
 秋枝は嗚咽が声に表れないように必死にこらえている。

(三)

 ◯◯◯署は、九日、同県◯◯◯市◯◯◯町 コンビニエンスストア店員 野村秋枝容疑者(三十四歳)を殺人の疑いで逮捕した。

 調べによると、野村容疑者は八日十九時頃、娘の野村道子さん(九歳)を入浴中に浴槽に沈めて殺害した疑いが持たれている。
 野村容疑者は取り調べに対して容疑を認めている。野村容疑者も道子さん殺害後に自ら手首を切って負傷しており、病院で治療を受けていた。

 事件翌日期限で野村容疑者宅は市から住宅の退去通知を受けており、市の職員が訪ねた際、応対した野村容疑者の手首から出血していたため、救急に連絡し、道子さん殺害が発覚したもの。

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