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短編小説『未来は続く』(3/5)


(三)

「美味そうだな」
喜一郎は大皿に並んだ巻きずしの一つを摘まむと、小皿の醤油にべったりと浸して口に運んだ。
正面に座る彩子から間髪入れずに強い口調で咎められる。
「そんなにつけて、味がわからなくなるじゃない」
「お父さんはこれがいつものことだから。お母さんが何作っても醤油かソースをつけるからね」
「これが一番美味いんだよ」
喜一郎はつい気色ばみ、咀嚼している口の中が露わになるのを躊躇わず抗議した。
彩子の遠慮のない物言いに長らく遠ざかっていたせいか、聞き流して済ますことができず、まともに受ける形になった。
二人でいる時は口出ししない益美も、この時は彩子に加勢して非難の言葉を重ねたので、それが余計に苛立ちを煽った。
とはいえ、女二人に立ち向かったところで言い負かされるのは眼に見えている。
喜一郎は面白くないと思いつつ、気を紛らわせようと、テレビに視線を向けた。
画面には、灰色にくすんだ団地の映像が映し出されていた。
ナレーションが、この団地に住んでいた女が生活苦を理由に小学二年生になる娘を浴槽に沈めて殺し自身も自殺を図った、と伝えた。
家賃滞納により団地からの立ち退きを宣告されていたらしい。
近隣住民がインターホン越しに、女は愛想がよくいつも挨拶を返してくれた、明るい人だった、と答える。
画面はスタジオに変わり、コメンテーターが「行政が杓子定規に対処するのではなくもう少しきめ細やかに住民の状況に配慮していればこのような悲劇は防げたのでないか」と尤もらしいことを言った。
「だったらおまえがやってみろ」
苛立ちに誘われてつい口に出してしまい、二人から怪訝な顔をされる。
役所のOBである喜一郎には、職員が世間の求める期待に応えるには限界があることを知っている。
生活保護や児童虐待に絡んだ事件が起きるたびに役所に非難が向くのはやり切れなかった。
今回のこの事件も役所の担当だけでどうにかできたとは思えなかった。
母親も、殺された娘も、気の毒には思う。
しかし、職員だけで対処するのは土台無理な話であり、親子は運が悪かったのだ。
「どんなに貧乏でも私は絶対に娘を殺したりしない。体を売ってでも独り立ちするまで育てきるよ」
彩子が奈帆の口に巻き寿司の卵を口に運んでやりながら言った。
極端なことを言うなあ、と呆れつつ、学生時代の自己中心的な考え方からすっかり改まり、これが母性というものか、と感心させられた。
そういえば益美も結婚した当初は引っ込み思案でどこへ行っても喜一郎の背後に隠れていたが、彩子を出産してからは随分と積極的になった。
一度彩子が近所の同級生と喧嘩して額に大きな痣を作って帰ってきた時には、喜一郎が止めるのも聞かず、相手の家に乗り込み、隣にいて気圧されるほどの迫力で相手の親に苦情を言ったものだった。
女とは違うものだな。
そう考えていると不思議と苛立ちは収まっていた。

食事の後、皆で茶をすすっていると、彩子が「明日は旦那が来るから、今日のうちにお墓参りを済ませておきたいんだけど」と言う。
墓はこの辺りでは一番大きな幹線道路を三十分ほど走らせたところにあった。
山の斜面に沿って数十の墓が並んでおり、その中には、喜一郎の両親や祖父母、親戚の墓があった。
「じゃあ、行くか」
途中、供えの花を買うために、スーパーに立ち寄る。
彩子と益美が花を選んでいる様子をガラス越しに奈帆と二人で眺めていた。
奈帆が店先に設置されたアイスクリームの自販機に気づき、欲しいと言う。
彩子に小言を言われるな、と思いながら、この暑さだ、アイスぐらい買ってやってもばちはあたるまい、とポケットから小銭を取り出して買ってやった。
包装を取り外そうとすると、奈帆が自分で外したいとせがんだので、渡してやると、案外上手に取り外していく。
それが、棒の先を下に向けていたせいか、包装を勢いよく外した拍子にアイスが棒から抜けて、そのままアスファルトの上にペタっと間の抜けた音を立てて落ちた。
喜一郎は思わず「ぷっ」と吹き出してしまったが、当の本人は堰を切ったように泣き始めた。
もう一本買うからと宥めてもなかなか収まらず、店内に目をやると異変に気付いた彩子がこちらを睨み付けていた。
結局、同じものを買ってやり、渡したところで漸く泣き止んでくれた。
包装を外す時はまた落とすんじゃないかと冷や冷やしながら見守っていたが、二度目は奈帆も要領を理解したのか慎重に外していき、無事棒に残ったまま外しきった。
そこへ彩子が手に花の入った袋を持って戻ってきた。
地面に落ちたアイスを一瞥し納得した様子で、奈帆に向かって「アイス買ってもらったんだ?良かったね。ママも食べようかしら」と言った。
喜一郎は皆が食べ終わるまでの間、手持ち無沙汰で、しゃがんで先程落ちたアイスが溶け広がるのを見ていた。
何処から嗅ぎ付けたのか、数匹の蟻がアイスクリームに含まれるチョコクッキーに群がっている。
蟻は薄く広がったアイスの表面で、体が浮き上がりながらも犬掻きのように足をばたつかせてどうにか進んでいた。
俺からしたら事故みたいなものだが、こいつらにしてみれば、突然の天の恵みなんだろうな。
喜一郎はなんだか自分が神になった気がして愉快な心持ちがした。
近くに落ちていた小枝を拾って、チョコクッキーを液体から離して乾いた場所に順に並べてやる。
それに気づいた近くの蟻たちがそこに集まり出した。
気配を感じて隣を見ると、奈帆が喜一郎と並んで、同じように覗き込んでいた。
「何かいるの?」
「蟻がいるんだよ」
「あり?ありー」
奈帆は言葉にならない頓狂な声を上げると、小さな足で蟻の集団を踏みつけた。
「こら、何している」
慌てて奈帆の腰を抱えて、凄惨な行為をやめさせたが、小さな足でも何度も踏みつければ集団を壊滅させるのに十分だった。
踏みつけらえた跡には、背泳ぎのような姿勢で6本の肢を差し上げたまま、あるいは半身を出した状態で動かなくなった蟻たちがアイスの表面に浮かんでいた。
子供は随分と残酷なことを躊躇いもなくする。
こいつらは今死ぬ予定ではなかった。
死ぬ予定ではなかった蟻たちが奈帆の気まぐれで唐突に生を終えて無残な姿を晒している。
普段は虫の死骸を見かけても塵芥ほどにしか感じないが、この時はなんだか嫌な気分になった。

墓参りは長らく誰も来ていないようだった。
暮石の周囲は雑草で覆われ、湯のみに溜まった雨水にボウフラがわいていた。
「酷いな。弟たちは来てないんだな」
「そうね、前に来た時もそうだったから次雄さんのところ最近来ていないのよ」
石を丁寧にタワシで擦り、湯のみの水を換えて、買ってきた花を花立に生けた。
線香をあげると腰を下ろして三人で合掌する。
奈帆が不思議そうにこちらを見ていた。
さて帰るかと腰を上げたところで、隣の墓に備えられた落雁に目がいく。
蟻が群っている。
先程のアイスは先遣隊が控えめに溶け出した汁を吸う程度だった。
今は一個小隊ほどの蟻が落雁の表面全体を覆いつくしている。
奈帆の様子を伺うが、幸い大人たちの真似をして墓に合掌している。
喜一郎は落雁を周回する蟻たちの蠢きに不思議と魅せられた。
先ほど踏みつけられて死んだ蟻たちと落雁に群がるこの蟻たちとで何が違うのだろうか。
ふと身近な人々の死に思いが至る。
大学時代に仲の良かった同級生の一人は四十代で癌を患って、最後は全身管に繋がれながら死んでいった。
役所の後輩は酒に酔って近所のホームセンターの駐車場にそのまま横たわって寝入ったところ、明け方配送のトラックに顔を潰されて死んだ。
前者はまだ死の覚悟をしていただろうが、後者は自分が死んだことにさえ気づかないまま死んでいったに違いない。
俺は、万年腰痛や食道炎に悩まされてはいるが、これまで大病を患わず、この歳までやり過ごしてきた。
生きるということは自分自身の意思とは関係なく結局生かされるということであり、俺もこいつらみたいにたまたま死ぬ機会が無かっただけなんだろうと思う。
そしていつ何時予定していない死が訪れるか分からず、死んだことにさえ気づかずに死んでいくのかもしれなかった。
「お父さん、大丈夫?」
益美に声をかけられて我に返った。
「すまん、すまん」
石段に一歩一歩を足を踏み下ろしながら、脳裏には落雁に群がる蟻たちの姿が焼き付いて暫く消えなかった。

                                                                                                    4/5へ続く

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