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[組織ブログ Ver.24] 「相手の靴を履く」と「相手を推察する」はまったく異なる

「相手の靴を履く」

これは比喩表現なのですが、こちらの言葉を聞いた事はありますでしょうか?わかりやすく言うと「相手視点に立つ」ということですが、ただ「相手の靴を履く」と「相手視点に立つ」のこの2つの意味は大きく異なると個人的には感じております。

本ブログでは、「相手の靴を履く」とは、本質的にどのような意味なのか?これを山根の個人的な解釈を多分に含めて説明していきたいと思います。




0. 融即的共感とは

融即的共感とは
自覚が及んでいない潜在意識にある想い。
気持ち、感情を、自分の中で「ああ。●●なんだろうな」と自然に腑に落ちるまで、深く感じ取り、それを相手が受け入れる形で表明すること。

さて、早速理解しにくい言葉の説明からスタートしました。僕もこの言葉を聞いたときに「??」と正直混乱しました。ただ、一つ一つ自分なりに解釈すると、この融即的共感の意味がわかってきました。

0-1. 「自覚が及んでいない潜在意識」とは

こちらの記事にもあるように、人間の「行動」の90%が「無自覚」とのことです。正直、最初はピンときませんでしたが、本ブログを執筆し始めたのも正直無意識ですし、今散歩しながら本ブログを書いてることも無意識ですし、頭をポリポリかく、手を上げる/下げる、寒いと思ってポケットに手を入れる、これらのすべては無意識です。

また、これに「相手」という変数が加わると、さらに「無意識」が増えると個人的には思っています。例えば、相手の一言に対しての自分の「表情の変化」。自分にとって嬉しいこと/悲しいことがあったときの自分の「言動」。これらについては無意識的になされていると個人的には思っています。

何を申し上げたいかと言うと、「相手の無自覚な潜在意識に対して共感をするなんて、不可能なのではないか?」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、

そもそも「自分自身の言動の90%は無意識」

という前提があるのであれば、相手の言動のほとんどは無意識であり、「自覚が及んでない潜在意識」へのアプローチを、相手である自分もできるのではないかと個人的に思っています。そこで1つ気づきがあったのです。

0-2. 人間は「自分」の言動は無意識なのに、「相手」の言動に意味を持たせようとする

この言葉に気づいたとき、ものすごく世界が広がりました。
僕個人的にも、「相手」の言動は日々観察しています。具体的には「発した言葉」「表情」「椅子に座ってる姿勢」「歩き方」など、特に会社のメンバーの観察をすることが多くありますが、そこでメンバーの「推察」をします。例えば、

「昨日のお客様とのミーティングであまりうまくいかなかったから、少し元気がないのかな」
「最近、そこまで調子が良いとは言い難いから、少し自信がなくなってしまっているのかな」
「今週末に大きなセミナーを控えているため、緊張してるのかな」

こんな感じです。
3つの事例を記載しましたが、これらは「僕(自分)」が「相手」に対して「推察」したことですが、僕は無意識的に「相手」の思っていること、つまり潜在意識を推測しているわけです。

何を申し上げたいかと言うと、

人間は「自分」の言動は無意識なのに、「相手」の言動に意味を持たせようとする。

と感じました。

皆さん、これ当てはまりませんか?

特にわかりやすいのは恋愛なのではないかと思います。自分は無意識的にあれやこれやと相手の気持ちを「推察」し続けます。そして、相手の言動に対して、一つ一つ「意味付け」をします。その相手の言動は相手が「無意識的」に実行していることも露知らずです。

ただ、本ブログの冒頭に「相手視点に立つ」と「相手の靴を履く」は本質的に違う、と記載しましたが、どのような違いがあるのでしょうか?


1. 「相手を推察する」と「相手の靴を履く」の違い

「相手を推察する」と言う表現に変えました。

推察とは
相手の気持ちをおしはかること

Oxford Languagesより

推察はあくまでも、相手が考えていることを「おしはかる」ことです。僕の解釈としては相手の「感情」を予測していることが推察の定義だと思っています。

では、「相手の靴を履く」とは何なのか?これは、「NVC」に照らし合わせると答えが見えてくるのではないか?と感じたのです。

1-1. NVCとは

NVCとは:
NVC(Nonviolent Communication=非暴力コミュニケーション)とは、1970年代に、アメリカの臨床心理学者マーシャル・B・ローゼンバーグ博士によって体系化され、提唱された、自分の内と外に平和をつくるプロセスです。

家族や友人から、職場、組織、国際関係まであらゆる人間関係を、支配、対立、緊張、依存の関係から、自由で思いやりにあふれた、お互いを豊かにし合う関係へと変えることを可能にする考え方、話し方という「方法」であると同時に、私たちに「なんのために、どう生きるか」を問う、根源的な「意識」でもあります。

それは、頭(思考)で判断・批判・分析・取引などをするかわりに、自分自身と相手の心(ハート)の声に耳を傾けることから始まります。

具体的には、観察(Observation)、感情(Feeling)、ニーズ(Need)、リクエスト(Request) の4要素に注目しながら、自身の内なる対話や、相手の言葉の奥の意図の推測、相手との対話を行います。

NVC Japanさんのブログ

さらに詳しく知りたい方は下記ブログをご覧ください。

NVCは、「行動」「感情」「ニーズ」を分けていることが僕個人的にものすごく興味深いと思っています。特に勉強になったのは、

自分の「感情」が動く原因は、相手の「行動」ではない。
自分の「感情」が動く原因は、自分の「ニーズ」にある。

こちらでした。
あまりピンとこない方も多いかと思いますので、事例を用いて説明します。

ミーティング中に居眠りしたメンバーがいたとしましょう。
あなたはマネージャーで、そのメンバーの「行動」に対して、イライラした「感情」が芽生えたとしましょう。このイライラと言う「感情」は、メンバーが居眠りをしたと言う「行動」によって誘発されたものです。ただ、あなたはなぜイライラしたのでしょうか?あなたは「何かしらを失って」イライラしています。ここで言う「何かしら」とはあなたにとって何でしょうか?

ちなみに、僕の場合、「何かしら」とは「あたたかさ」「愛情」が自分のニーズだとなんとなくわかっています。僕の場合は下記のように本事例を変換できます。

メンバーの居眠りを見て、僕がイライラした。その理由は僕のニーズである「あたたかさ」「愛情」が失われたからだ。

この表現をすると、「自分」に矢印が向きます。これは僕だけではなく、皆さんも全く同じです。皆さんが、日々の生活の中であらゆる「感情」を持つと思います。その感情は、他者の「言動」によって生まれていると思い込んでいますが、そうではなく、自分の「ニーズ」が失われてるから発生している、と言う考えが NVCの考えになります(と僕は解釈しています)。

1-2. NVCが「相手の靴を履く」ことに、どのようにつながるのか

なぜ本ブログで突然NVCの話をしたのか?それは「ニーズ」の存在を皆さんに知っていただきたかったからです。

前述しましたが、「相手を推察する」と「相手の靴を履く」は異なります。

  • 「相手を推察する」とは、相手の「感情」をおしはかること

  • 「相手の靴を履く」とは、相手の「ニーズ」を知ること

このように僕は解釈しました。

ただ、ここでこんな疑問が生まれます。「親しい関係性でもない限り、相手のニーズを知ることは難しいのではないか?」本当にその通りです。むしろ、日々コミュニケーションを取る会社の同僚やお客様と、そこまで深い話ができていることの方が少ないかと思います。もちろん深い話ができていれば御の字です。お互いの「ニーズ」を知った上で仕事をすると、ものすごく仕事がしやすくなると個人的には思っています。

繰り返しになりますが、そこまで関係性が深くない中で、お互いの「ニーズ」を知ることは、どのように成し遂げていけば良いのか?そんなことを考えていた時に、当社の組織支援に入ってもらっている江上さんのこんな言葉を思い出しました。

「すべての人間のニーズは1つに行き着く」


2. すべての人間のニーズは1つに行き着く とは?

これはNVCを学んで感じたことだったのですが、各メンバーのNVCにおける「ニーズ」を深く入り込んでいくと、最終的には同じ「ニーズ」にたどり着くのではないか?という感想を持っていました。

本ブログでは、深い説明は割愛するのですが、僕個人的には、どのような人間でも最後に行き着くのは「愛」だと思っています(これを言うのも恥ずかしいですが)。

マーシャル・B・ローゼンバーグさんは、人のニーズは基本的に同じであるといってます。また、ニーズは時代、国、宗教、民族を超えて共通だといわれています。

こちらの内容を江上さんに教えていただいて、個人的にはものすごくピンときました。これまでの本ブログの内容も考慮した上で、説明してみます。

僕ら人間は、他者の「行動」という「事実」にしか触れることはできません。その無数に存在する他者の「行動」「推察」して「感情」をおしはかります。「感情」の種類は多数存在しています。そのため、相手の「感情」「推察」しても正解かどうかは相手しかわかりません。ただ、相手の「感情」が動く原因は自分の「行動」ではなく、相手の「ニーズ」であると捉えてみる。そして、その「ニーズ」は時代、国、宗教、民族を超えて共通である、と考えると、自分と相手のニーズは根本的には同じであると言える。

すみません、うまく文章で書けなかったのですが、何を申し上げたいかというと、

「相手の靴を履く」は、相手の「ニーズ」を知ろうとすること

だと仮定した際に、相手の「ニーズ」は自分の「ニーズ」と根本的には同じ、と解釈をすると、相手の靴を履きやすくなると思いませんか?(と僕は思っています)


3. 相手のニーズと自分のニーズが根本的には同じ、と考え始めてから、相手の見え方が変わった

僕はこれまで、相手の「行動」に対して自分の「感情」が動いていました。例えば、

・相手が指示通りに動いてくれなくて(言動)、自分が落ち込んだり(感情)
・相手が会社の陰口を言ったことに対して(言動)、自分に喪失感が生まれたり(感情)
・信頼していたメンバー(相手)の突然の退職に対して(言動)、自分に何とも言えないような焦燥感が生まれたり(感情)

こんな感じでした。
今は、相手の「行動」に対して自分の「感情」が動くのではなく、自分の「ニーズ」が原因になっている、と捉えています。

・相手が指示通りに動いてくれなくて(言動)、自分が落ち込んでいるのではなく(感情)、自分のニーズである「あたたかさ」「愛情」が失われて(ニーズ)、落ち込んでいるんだろうな(感情)

・相手が会社の陰口を言ったことに対して(言動)、自分に喪失感が生まれているのではなく(感情)、自分のニーズである「あたたかさ」「愛情」が失われて(ニーズ)、喪失感が生まれたのだろうな(感情)

・信頼していたメンバーの突然の退職に対して(言動)、自分が何とも言えないような焦燥感が生まれているのではなく(感情)、自分のニーズである「あたたかさ」「愛情」が失われて(ニーズ)、焦燥感が生まれたのだろうな(感情)

そして、本項のタイトルにも記載していますが、「相手のニーズと自分のニーズが根本的には同じ」と捉えると、さらに前に進むことができると感じています。

上記の事例でいうと、

・相手が指示通りに動いてくれない
・相手が会社の陰口を言った
・信頼していたメンバー(相手)が突然の退職をした

これらの「相手」の「行動」はある「感情」が起因して生まれています。
ただ、相手のそれらの「感情」は、「ニーズ」から生まれている(原因)になっていると考えると、自分と相手の共通点が生まれます。

例えば、

・相手がイライラしていて(感情)、相手が指示通りに動いてくれない(行動)、相手にその感情が生まれたのは相手の「あたたかさ」「愛情」というニーズが失われたからだ

・相手が自分にスポットが当たらない寂しさから(感情)、相手が会社の陰口を言った(行動)。相手にその感情が生まれたのは相手の「あたたかさ」「愛情」というニーズが失われたからだ

・相手が会社に喪失感を覚え(感情)、突然の退職をした(行動)、相手にその感情が生まれたのは相手の「あたたかさ」「愛情」というニーズが失われたからだ

こんな感じです。

※繰り返しになりますが、僕はNVCと出会ってからまだ日が浅いため、NVCの活用方法と言いますか、解釈が誤っているかもしれませんが、僕なりにこのように解釈をすると、腑に落ちた、という話ですので、ご認識ください。


4. 「相手の靴を履く」とはどういうことか?

本ブログが右往左往してしまったのですが、「相手の靴を履く」とはどういうことか?僕の答えは、

自分と相手の「ニーズ」が根本的には同じであると理解し、相手の「ニーズ」を知ろうとすること。そして相手の靴を履いて「歩いて」みること。

です。
上記文章における前半部分は本ブログで時間をかけて説明をした通りになりますが、後半にある「相手の靴を履いて歩いてみること」とは何か?

それは、

「相手に存在する(自分にも存在する) ニーズが、自分のことのように失われていると想像すること」

という表現が、今の僕には精一杯な表現です。

本ブログで「相手と自分のニーズは根本的には同じ」と何度か表現しました。これは「相手と自分のニーズは根本的に同じなのだ」と「理解」することだと思っています。

そうではなく、相手の「行動」「感情」は、相手の「ニーズ」が失われている故に起きているとした際に、自分が(同じである)「ニーズ」を失ってると考えること = 相手の靴を履いて歩くことなのかなと。

仮に相手がイライラしているとしましょう。
これまでは、「あ、●●さんイライラしているなー、何が発端だったのかな。先ほどあったミーティングで社内のメンバーと口論になってしまったのかな…(行動)」などと推測していました。そうではなく、おそらく何かしらの「ニーズ」が失われている、と考え、且つその「ニーズ」は自分と相手は根本的には同じであると仮に考えてみる。そして相手がイライラしていることは「自分のニーズ」が失われていることと同じなんだ、と想像してみる。

これが「相手の靴を履いて歩くこと」だと思いました。


最後に

本ブログのサムネイル画像は「うさぎ」にしました。僕は7年弱、うさぎと生活しています(名前はモモと言います)。
うさぎは「言葉」を発することができません。そして表情があまり変わらなく、人間が「感情」を理解することが難しい動物です。

つまり、うさぎは本ブログでいう「行動」と「感情」がわかりにくいのです。ただ、うさぎにも「ニーズ」があります。そのニーズが「愛情」と仮定すると、うさぎから「行動」と「感情」が起こっていなくても、モモには愛情を注ぎ続けることが一緒に生活している僕としては重要なんだなと思った、2月3連休の中日でした(ブログ執筆日)。

皆さんいかがでしたでしょうか。
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