見出し画像

運命論という発明

自分がいま生きてるのは、様々な方面から助けてくれた人達、先人が積み上げてきた知識、歴史あってのこと。
それに多大なる感謝をしつつ、生きてるって事実はただの事実。それ以上でもそれ以下でもない。
って考え方もあるし、何か意味があるってする考え方もありますね。

タイトルは、絵本作家・ヨシタケシンスケさんかどこかで述べられてたこと。

何が意味があるってすると、じゃあ不本意にも亡くなってしまった人は生きてる意味がなかったのかって話になる。死ぬことに意味があったのかと。
そんなのあんまりだよって、「いのち」を平等に扱おうとすると、生きてることも死んでることも、ただの「事実」であって、特に意味はないって話になります。

私個人的には後者の立場です。
でもなんか「生かされてる」なぁと思ってしまうこともある。何かに守られてるというか…
人智を超えた?力に守られてるような感覚が、確かにある。
同年代(30代前半)の友人らにこんな話をしても、スピ系にハマったのか?とか思われそうだけど。
お年寄りにはわりと身近な感覚なんではなかろうか。ご先祖さまを大事にするって感覚に近いのかな。

生きてることにどんな意味があるのか、ないのか。これは考えても明確な答えが出ないことだと、大昔からわかっている問いの一つですね。

ただ「解」はでないけど、ヒントというか、カケラを集めることはできる。
自分の感覚をかき集めて、この世界の末端から何かを感じ取ることはできる。こういう現象学的な発想で生きています。
あー哲学って楽しいな。一人でも楽しいし、誰かと分かち合うのも時には楽しい。

でもこのような哲学的思考を人間社会に持ち込むと色々おかしなことになるので、日常生活をおくる時には、しっかり人間のルールに則って生きておくべきだと思います。
でないと感謝の言葉すら、どこか他人事になってしまう。ついつい自分と、自分にまつわる出来事を客観視して論じてしまうんです… 悪気はないんですけどね… アスペルガーとか言われがち。

ただ良い点もあって、自分の脳みそ一つで遊べるので、安上がりです。
あたたかい居住空間さえあれば、一日中思考と戯れて遊んでいられる。

何の話だっけな。
いのちの話です。
つまり、老いの話でもあります。

先日、定期的な血液検査の結果が出て、とても良い結果でした。
漢方の主治医に、こんな素晴らしい結果が出て、もっと喜ばんといけん!と怒られました。
確かに、ここ最近ずっと調子が良かったので、心のどこかで、結果が良いのは当たり前だという気持ちもあったのかもしれません。

病院には、加齢や病気のせいで色んなところにガタがきて、さてどこから改善していこうかという話をしにきている人がたくさんいます。
それに比べると、私はまだ若く、大変な病気をしたものの、驚異的な回復力を見せ、いつの間にか一般の人よりも健康体になっていました。

論点は二つ。
まず自分を褒めよう、めちゃくちゃ。
治療開始してから、一年ちょっと。その間会社は休んでいたが、何もしていなかったわけじゃない。しっかり養生していたのだ。その結果がいまのこの健康体。先生はそう教えてくださった。
自分、すごい。家業にまつわるあれこれの仕事もしたし、自分の身体を健康にするというミッションも達成した。これはもっともっと誇っていいことだ。

どこにミッションを設定するか、そしてちゃんと達成できた自分を褒めること。言葉にすると簡単だけど意外とおざなりにしがち。
こういうことを丁寧に気づいていくことで、自分の自信にも繋がるんだろうな。
学び多い。

二つ目。
老いを肯定する考え方はまた別にあるんだろうなと思った次第。
私は、自分の今の健康体を肯定することは、すなわち、後の老いや病を否定することになってしまうのではと想像していたのだ。
でも、老いのステージはそれはそれで、目的設定を変えて、その中で人生の充足を測るからまた違う話なんだろうなと気づいた。その時はその時の愉悦があるのかもしれぬ。

比較的若くして命に関わる病を経験した私の場合、老いを肯定する土台は人より備わっているはず。生きたら生きたもん勝ちだ。

さてこのへんで。


この記事が参加している募集

#最近の学び

181,634件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?