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2021.09.07

昨日はなぜか京都駅から電車に乗ることをためらって、ふらふらと亡霊みたいに京阪電車の七条駅まで歩いて特急に乗った。一人掛けの席に深く腰掛けてぼんやりしていたら終点の淀屋橋に着いたので降りる。改札を降りてすぐの売店で角ハイを買って地上に出た。見上げるとオフィス街に並ぶ高層ビルが爛々と灯っていて、それが妙に心安らいだ。淀屋橋の欄干にもたれ掛かり、川を見ながらハイボールを飲む。当然鴨川とは違う。昼間は淀んで汚い川も、ビルの明かりを反射する鏡となってゆらゆらと揺れている。

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SpotifyがKIRINJIの「Drifter」を再生する。歌詞とメロディが妙に胸に迫って泣きそうになりながらそれからその夜はずっと繰り返し聴いていた。KIRINJIの「Drifter」しか聴きたくない夜がある。

帰ってからの記憶はない。朝、目が覚めていつものように仕事へ行く。途中で朝日新聞を買い、桜庭一樹「少女を埋める」をめぐる記事を読んだが、話にならないなと思った。もはや怒りすらない。

僕にとって文学って何なのだろう。
呪いのように響く言葉がある。
大学院時代、指導教授がゼミで何気なく放った言葉だ。

研究をしていれば当然腹が減る、頭を使えば疲れるし、足を使えばもっと疲れる。本を買えば金が減る。飯を食えば太るし、ずっと本ばかり読んでいたら偏屈になる。文学をやっていても金は稼げないし、性格は暗くなるし、社会性なんて身につかない。それでも文学をやるんだよ。

こんな言葉だったと思う。たぶん、というか絶対にもっと違う言葉だったと思う。でも、大体のニュアンスはこんな風だったと思う。文字にしてみると全然違うなとも思うけれど、「文学をやる」ことの逃れられない宿命を刻まれたような気がした。研究から逃げるように大学院から離れたけれど、文学は僕の周りをずっと付きまとっている。宿怨のように、文学は僕の人生を蝕み続けるのだろうし、きっとそこからは逃れられない。呪いだ。

Twitterで伊丹小夜さんの書いていた言葉が僕の文学への向き合い方と似ている気がした(勝手に似ているとか言ってごめんなさい)。

今朝の朝日新聞の評者と担当者の言葉は全く響かない。僕の思っている文学と、彼らの考えている文学は全く別の世界のものなのか。

文芸誌の発売日だったので、「文學界」「新潮」「群像」、そしてジェニー・エルペンベック『行く、行った、行ってしまった』(白水社)、呉明益『自転車泥棒』(文春文庫)をジュンク堂で買う。袋代を入れて8704円。

帰ってまずは「文學界」の平民金子「めしとまち」を読み、しばし突っ伏す。


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