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東京国立博物館にて

先日所用で東京に行く機会があったので、せっかくだし少しくらい一人でゆっくり心を満たそうと東京国立博物館に行ってみました。
予想を超えた広さ。午後から別件を入れてしまったことを少し後悔するくらいには見るものがたくさんあって、とてもじゃないけどゆっくりとは見れませんでした。というわけで、じっくり見て回った取り留めもない感情を残しておきます。

本館には入らずに一番の目当ての
日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」
を目指して平成館へ。

あ

一言で言うとめちゃめちゃ興奮した。大学では日本史を学ぼうと高3当初まで思っていた私にしたら、教科書や資料集に載っている作品や資料が目の前にあるというだけでテンションが上がらないわけがない。銅戈や須恵器、土師器だって教科書や資料集にはいつも同じものを同じ角度から撮ったものしか掲載されていない。しかし、手作りだから当然のことだが、作品一つひとつは様々に違いを持っていて、その個々に出会えたことが何故か嬉しかった。
日本書紀をはじめとするいわゆる「資料」は、一見すると文字の羅列で面白くないかもしれない。もちろん後世に複写されたものだが(それでも鎌倉時代や南北朝時代)、その人のくせが見えるのが手書きの、筆の面白さだと感じる。はねかた、線の長さ、左右のバランスなどに表れるくせは、巻物を広げられて展示されたその端から端まででよく使われる漢字などを見ていると、同じ人が書いたものだという安心感をもたらす。
展示室の真ん中あたりには、島根県にある弥生時代の遺跡、荒神谷遺跡から発掘された大量の銅剣や銅鐸が展示されていた。これだけ多くの作品を同時展示することも珍しいのだが、それよりも私はそこに不気味さを覚えた。それはおそらく、私が想像する「古代の作品=手作り=不揃い」という考えを払拭させるものであったからであろう。精巧に、同じ型の銅剣がずらっと並ぶ様子が機械によって大量生産を行う近代を彷彿とさせた。不揃いであることで「個」を認識し、それによってその向こうに作り手がいるということの温かさを感じていたことを、逆説的に感じる機会となった。
私が最も見たかった作品の一つが「三角縁神獣鏡」だった。教科書に絶対乗っている作品で、いまだに卑弥呼の鏡かどうか研究者の間で大きく議論されているものもある(三角縁神獣鏡というのは特定の鏡ではなく、銅鏡の形式の一種で、縁部の断面形状が三角形状となった大型神獣鏡のこと全般を指す)。今回のはその議論の中心の作品でこそなかったが、初めて間近に目にすることができ、よく見るとちゃんと漢字が読み取れることに非常に驚いた。このような鏡というのは、基本展示されている(写真に掲載されている)のは装飾が華やかな裏面で、鏡としての機能はその反対面である。古墳の中ではその鏡面を木棺に向けてずらっと並べられていたという。鏡の持つ不思議な力のようなものに死者を葬る際にあやかりたかったのだろうか。
埴輪は実はあまり今まで興味がなかったのだが、今回改めて非常に興味深いものだと感じた。人の顔に入っている刺青や、その人の身分を表す髪型が表現されていたり、動物の生き生きとした姿(振り返っている鹿は鳴き声が聴こえてきそうであった)などが現代に伝わっているのが面白かった。

正倉院展も好きなのだが(上のnoteは正倉院展の感想)、何せ日本の古き良き作品を展示する美術館や博物館に行って感じるのは、自分の漢字の読めなさである。改めて自分の無知を思い知る。今回だと手斧(ちょうな)、鎹(かすがい)、火熨斗(かのし:フライパンのような形のアイロン)などなど。日常遣いしないものだからこそ、知っていると自分の価値がこっそり上がる気がしてひっそりと喜んでしまう。知らなくても今回知ればいいもんと言い聞かせる。

もっとゆっくり見たい気もしたけど、私にはもう一つの目的があったので東洋館へ移動。目指すは
特別展「人、神、自然-ザ・アール・サーニ・コレクションの名品が語る古代世界-」

い

館内の広さにまたもや圧倒。特別展は一部区画のみって聞いてたけどこんなにも広いのか。特別展はまさに一区画だけという感じであったが十分満足出来るものであった。
海外の古代作品を見た時にいつも思うのは、紀元前数百年の時代にこんなにも精緻な作品を作る技術や職人がいたこと。紀元前って、日本にもう人間ていたのだろうか… 優劣を付けたい訳ではないが、アジアの土器や埴輪なんかの作品にはとても描写性が高いとは言えないような抽象的な作品が多い。先ほどの「出雲と大和」展でも、銅鐸に描かれていた狩りをする人や臼をつく人の絵は、さながら象形文字のようだった。もっというとラスコーの壁画の方が似ていたかも知れない…
メソポタミアの前2050年頃の作品、「男性像頭部」なんかは写実的すぎて質感といいリアリティの高さといい、少し恐怖を感じた。
面白さを感じたのは、作品の説明欄に「オルメカ人(現在のメキシコにあたる)は、宇宙は広大なトウモロコシ畑だと本気で信じていた」というもの。当時の技術では宇宙や海の向こうは想像の世界だったからこそ、彼らにとっての「楽園」を描いていたというのは、とてもロマンのあることではないだろうか。
また、エジプトでは30万体を超えるネコのミイラが発見されたそうだ。愛玩動物だからこその待遇(ミイラにしてもらえるということは大切にされていたということ)ではあるが、紀元前6世紀にそれが行われていたことの文明と文化の発展を感じる。
リュトンと呼ばれた酒器はとてもお洒落な装飾や形のものが多く、その豪華さが故に逆さにしないと安定して置けない。そのため、毎回注いでもらったら飲み干さなくてはならなかったという。これは毒を知らない間に盛られるのを防ぐ効果もあったんじゃないかと勝手に想像を膨らませるなどしていた。酒器は主に、横になった男性が女を抱きながら使うのが主流だったため、使えるのが片手(右手)しかないという前提で持ちやすさを工夫されているらしい。以前、「人間は怠惰なる生物だからこそ、『面倒なこと』をいかに工夫して楽にしていくかを追求して発展してきた」ということを聞いたことがあるが、いかにもその典型だと感じた。 

残念ながら本館は入り口入って、広すぎるわと感嘆のため息を一つついただけで時間切れでした。次はリベンジしたいなぁ。
今回で一人旅の気楽さと楽しさに目覚めたような気もしましたが、やっぱり感想を共有できないと寂しいのでハマったりはしないんだろうなと思いました。

テスト期間に書いたからか、文章がレポートっぽくなってしまいました。
まあこれも、一人のわたしってことで。


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