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一人称単数

■書籍名 一人称単数
■著者  村上春樹
 村上春樹作品と聞くと、ついついカリスマ的なイメージから圧倒的な読み応えを期待してしまうが、これまではその期待感は裏切られることがほとんどであった。そして、本作においても同様の感覚を抱かざるを得ないところはある。先に言っておくと、決してつまらないと言っているわけではない。いや、むしろ読み応えはあるし、心に響く言葉も多い。ただ、読む前に僕が勝手に膨らませる圧倒的な読み応えの期待感を満たしてくれることはない、というだけである。
 村上春樹は自分の言葉で語っていると思う。言葉を語るという一人の人間として、そこにカリスマ的小説家という枠組みを勝手に当てはめる世の中、メディア、そして僕自身が本当は間違っているのかもしれない。むしろ等身大の体験として、僕の警戒感も働かさずにすらっと入ってくる言葉を語っていること、読者全員に自分ごととして捉えさせることができる小説家という意味で、稀有な存在なのかもしれないのである。
 本書の中の「クリーム」に出てくるおじいさんの言葉で、「中心がいくつもある円や」「しかも、外周を持たない円のことや」というところがある。僕はなぜかこの言葉を読んだ時、少なからず既視感にかられた。この不思議なメッセージを過去にどこかで聞いたことがある気がすると思った。もしかしたら、本書刊行前に、たまたまこの短編を雑誌で読んだのかもしれない。その可能性は十分にある。でも、それ以上に、「唐突に現れる不思議な老人が、さらっと不思議な言葉かけを施してくる」という構造に既視感を感じたのかもしれない。この構造の場合、老人は絶対に直接的な答えを教えてくれないのである。いや、もしかしたら老人自身も答えを持っていないのかもしれない。いずれにせよ、僕たちに対して「深く考えなさい」という射光のような逃れられようのない圧力をかけてくるこれらの不思議老人は、必ずといっていいほど、僕たちが受け取った言葉の意味を消化できないまま、消え去っていくのである。でも、そういうものであるということだ。その時点では自分自身では理解できない内容を、そのままの形で頭に残しておくこと。理解を留保することによって、いつか自分の中でひらめきとなり、体験と符合させることを期待し、そっと頭の中に留めていく態度が求められているのではないか。これらの不思議老人たちは、すぐに咀嚼してわかった気になるな、頭に長い間言葉をそのままとどめ、「理解をしない持久力」をつけろ、そうすれば自ずと道が開けるであろう、とでも指南している気がしてならない。
 本書タイトルの「一人称」という意味では、日本語の僕・私・俺などに見られる男性の一人称代名詞について思うことがあるので記しておく。僕は、これらの日本語の一人称代名詞が、自分を指す言葉としてどれも少しずつ使い心地が悪くフィットしない、という感覚を常々もっている。もちろん立場や状況によってやむなく使い分けるが、どの代名詞も自分を指す言葉としての違和感が生じるのである。その点英語は楽だ。「I(アイ)」しかないわけだから。こうした違和感を持たず、状況によって使い分けるというめんどくさい選定作業も不要だ。日本語でもIに相当する普遍的代名詞が男性用にあればどんなに楽なことかと思ってしまう。
 穿った見方をすれば、日本語の男性用の代名詞は、「自分を指す言葉としてフィットしない」こと自体が合目的的なのではないかとすら思えてくる。代名詞が常にフィットしないことで暗黙的に確認している、または何かしらの利益を享受している、あるいは生物学的な競争性優位などがあるのではないかと考えてしまう。「自分」引く「僕」や、「自分」引く「私」、」「自分」引く「俺」などの「引き算」に解があるとすれば、それはなんなのかということである。もしかしたら、極論すれば「自分」と「自分の氏名」との引き算にも不一致があるのかもしれない。そうなると自分とはいった何なのか。一人称とは何なのか。二人称との境界線どころの話でない。そもそも自分とは一体何のかということである。こうした回答の難しい問題に関しての考察としては、一人称ではないもの、つまり二人称や三人称であるものを定義していくことで外堀を固めて、結果的に二人称や三人称でないものを「一人称っぽいもの」として捉えていくことしかできないのかもしれない。
 いずれにしても、この「日本人男性の一人称代名詞問題」については、まさに不思議老人が言った「中心がいくつもある円」と同じような難問である。したがって、安易な答えは導かないほうが良さそうである。これからも考えていきたいと思う。

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