見出し画像

単純な脳、複雑な「私」

■書籍名 単純な脳、複雑な「私」
■著者  池谷裕二
 脳科学というと、ニューロンやシナプス等の神経系による科学的な論述に終始するイメージが強いが、本書においては、聞き手が高校生ということもあり、大変丁寧な説明がなされており、脳の不思議の本質に迫る良著である。哲学的に難解な論理的な意味を付与することで得心のいく事象についてさえ、脳科学にかかると、単なる現象として処理されるということで、これまであまり考えたことのなかった側面からの思索であり有意義であった。
 基本的には、脳が脳としての機能を果たすということは、それ自体が生物学的な生存戦略上必要とされる適応の結果であると考えるのが本書のスタンスだ。現在の人間の脳は、生物の競争戦略上の最適化の結果ということである。よく考えるとそれは至って合理的である。なぜなら、長い時間の中で結果的に種が生存しているということは、それだけで、これまでの環境適応を果たしてきた結果ということに他ならないからである。僕たちは、生きていることや起こったことに対して、事後的に意味を付与しがちである。というより、何らかの意味を付与しないことなしに現象を理解することができないといっても過言ではない。これは、世の中で起きているあらゆる現象のうち、身体的にキャッチできる現象があり、その中で、意味として理解できる現象のみが僕たちの世界を形作っているということである。
 大変興味深かったのは、人の視野は縦よりも横の方が広いということが取り上げられている部分である。これは、広野のなかで生存競争を強いられてきた人間にとっての環境適応の結果とされている。地上と空の縦範囲における外敵への警戒モニタリングよりも、地上における360度の横範囲における外敵への警戒モニタリングにエネルギーを配分することが生存戦略上優位であったということで、結果として人の視野は、縦より横の方が広いということになったのである。このことからわかるのは、「僕らにとって「正しい」という感覚を生み出すのは、単に「どれだけその世界に長くいたか」ということだけなんだ。」と著者が高校生に説明するとおり、僕たちは、結局のところ環境に適応した結果として、この世界に立ち現れている、ということである。ややもすると僕たちは、自分の目で見たものを真実であると捉えがちであるが、それはそうではない。「それは真実である」という自分の都合による解釈をしているだけなのである。目、耳、鼻などの感覚器を通してインプットされた情報は、すでにその時点で僕たちが生存戦略上優位になるようなものの見方になっているということなのかもしれない。
 著者は、記憶についての考え方も非常に冷静である。つまり、記憶は何のためにあるのかといえば、自分が自分であることを忘れないようにするため、ということである。確かに自分が自分であることの記憶の連続性がなくなってしまうと、優位に生存していくことはできない。環境に適応した結果、記憶することができるようになった生物が優位に生き残ってきているということである。
 脳の「ゆらぎ」の必然性についても大変興味深い。ゆらぎ、つまりノイズということであるが、ゆらぎがあることにより、効率的なエネルギー供出が可能となっているということであるらしい。そのロジックは「確率共振」と呼ばれ、ゆらぎがあることで微弱なシグナルも拾い上げることができるというから驚きである。ゆらぎのわかりやすい例として紹介されていたのが、アリである。アリはほとんどが同じ働き方を行うが、中には人間と同じように、全くもってその働き方に収まらない奴がいる。みんなが一つのルートで餌のありかを伝達しあって運びながら働いている中で、その異端アリは、フラフラと別のルートを歩き、偶然的に餌のありかを見つけ出す。そしてそっちの方が餌場までの距離が短いとなるとそのほかのアリもその異端アリに引きづられてルートを変えていくのである。よく集団が生き残っていくには多様性が必要であるというが、まさにそのような異端が新たな道を開拓していくということは、一見すると無駄に見える「ノイズ」が必要とされることがよくわかる事例である。
 効率性を追求すると、ゆらぎは無駄なものとして排除されることになるのかもしれない。しかし、本書からわかるとおり、本来はゆらぎによる生存優位性が効率性に劣るということはあってはならない。一見すると無駄かもしれないものは、排除する前に一度立ち止まって、無駄だと思うのになぜ今の今まで存在しているのか、という始原的な視点に基づき、合目的的な要素の有無を点検する習慣を持つことは有意義であると考えられる。もっといえば、直感的に無駄だと判定されたものは、つまりノイズなんだという可能性が出てくるわけで、非効率ではあるが生存優位性を担保しているものとして理解することが可能なのかもしれない。
 そうすると「効率性を追求する」ということは、生存戦略上は短期的には有利となるかもしれないが、長期的には不利になるということになる。それでも効率性を追求するということは、全くもって短絡的なバカだということなのかもしれない。僕たちは、学校教育の中で、効率性を善として教わってきている。管理をする手段として、効率化を図ることが最適解であると無自覚に理解している。でも本当はそうではなくて、一見無駄だと思えるものの中にある合目的的な要素をよく考え、無駄ではないことを見出していくという教育が必要であると考えられる。それはつまるところ集団の生存確率を向上させる「多様性の尊重」につながるのである。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?