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一億三千万人のための「論語」教室

■書籍名 一億三千万人のための「論語」教室
■著者  高橋源一郎
 読後感としては、論語という一般的にはなかなか理解することが難しい書物を、楽しく愉快に読むことができたという満足感があるとともに、そのような愉快な内容に20年間かけて仕立て上げた著者の所業と心意気に敬服するところである。
 本書は、論語の現代語訳、いや現代版「超訳」と言ってもいいかもしれないが、いずれにしても現代社会に生きている僕たちが、孔子の存在を身近に感じることができる、源さん(僕は勝手に著者のことをこう読んでいる)による論語の愉快な訳本である。
 本書では、孔子のことを「センセイ」と呼んでいる。孔子のことを「センセイ」と称することで、雲の上の存在ではなく、普通の身近な「良き兄貴分」のような存在であるかの感覚を読者に想起させることに成功している。これが仮に「先生」だとしたら、僕たちは、孔子の存在を学校教育的な指導者と生徒という関係性を連想していたところであろう。あるいは「せんせい」だったとしたら、そこに幼児性が伴う初等教育的なイメージが加わっていたであろう。逆に「師」などと格調高く呼称していたとしたら、一つの道を極めた人間の崇高な近寄り難さが前景化し、こんなにも親近感のある愉快な訳本になっていなかったと思われる。「センセイ」。この呼び方はそういった意味で、孔子と読者の間に絶妙な関係性を構築するための舞台設定がなされているといえるのである。
 僕は、読んでいる途中に何度もニンマリとしたり、ついつい愉快に笑ってしまうことすらあった。例えば、次のようなものである。
 
 (本文)子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。
 (訳)「和して同ぜず」は、わたしの名言の中でも、ヒット中のヒットになったやつです。短い中にも、深い意味が込められているし、語調もいいし、人工に膾炙するのも無理はないですね。えっと、この意味ですが、最初のフレーズは、「仲良くすることは大切だが、だからといってよくわかっていないのに「いいね!」ボタンを連打するのは考えもの」ということ、次のフレーズは『で、実際はどうなっているかというと「いいね!」ボタンを連打する連中に限って、「賛同していただいたみたいなので。一緒にどうぞ」というと「えっ?ぼく、ボタン押しただけで、それ以上はどうも」って答えがち』という意味ですよ。(本書348ー349ページより)

 まず、孔子のイメージから脱出した孔子である「センセイ」が、本来の孔子としての言葉を現代の視点から「ヒット中のヒット」になった一節であると解説しているところが、超訳的な描写として大変優れているのである。「私は、孔子という遠い存在ではなく、「センセイ」という君たちにとっての身近な存在なのだ」ということ読者に語っており、文章中でいきなり「センセイ」がこちら側にフワッと寄り添ってくる。「ヒット中のヒット」という、音楽シーンのオリコンチャートとか、ビルボードランキングのような、僕たちのポップカルチャーを想起させる言葉遣いが、さらに僕たちを引きつける。
 そして、孔子がSNSの「いいね」ボタンを押すわけがないのであるが、本文の主旨を的確に踏まえた超訳に昇華されていることに驚きである。まさに跳躍的な超訳、超訳による跳躍である。もちろん正確な直訳をすることも大事であるけれど、このように現代社会のツールをふんだんに素材とすることで、僕たちは孔子の言いたいことを頭で理解するのではなく、日常生活レベル、肌感覚で理解することができてしまう。機能主義的に捉えると、「センセイ」と呼称することと同じように、読者に対して論語への親近感を抱かせるとともに、例え話にあえて孔子の時代以後の素材を多用することで、孔子の言わんとしていることに、時代を超えた普遍性を付与することに成功しているのである。他にも、公文書改竄などの時事ネタを挟み込んでくることで、安倍政権(当時)を暗に批判するところや、後の時代に生まれたはずのイスラム教の例え話が出てくるところなど、他にもたくさんあるわけだが、これらのあとの時代の事例をたくさん用いることで、どんな時代にも通用する価値観や普遍的な人間性といったものが、物語のなかで自ずと前景化してくるのである。源さんは多分これをねらってやっていると思う。源さん、さすがです。

 本書は500ページを超える大作である。でも、いっぺんに読み進める必要はない。他の本を読みながら、同時進行的に1年くらいかけて、ちびちびと読むことをおすすめしたい。そのように毎日でもちびちびと読んでいると、本当に「センセイ」が身近な存在に感じることができるのである。それこそ、近所のどこかに住んでいるかのような信頼を寄せられるアニキ。ちょっとそこまで「センセイ」に聞きに行ってみよう、と気軽に相談できるアニキのように思えるような、孔子をそんな身近な存在に感じることができる。古典がここまで身近になった経験は初めてである。読み終わってもまだ「センセイ」はいつも僕のそばにいてくれているような気分である。

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