(言葉の真理あるいは)言葉の心(こころ)と理(ことわり) ——藤富保男「詩の窓」


岡﨑乾二郎


 真理の言葉というものがあるらしい。真理は真理であるゆえに、いっさい変更不能、置き換え不能、これをなにかに喩えたり、水でうすめるかのようにパラフレイズして解りやすくすることなどはできない。飲みやすくしようなどと試みて、極上のワインを水で薄めたりしたらワインも台無し、アロマ・ナンバーワンもナンバーツウもいづこともなくうせにけり。
 藤富保男さんの書かれるものはいつでも真理であるので、それについて書くことは余分な事柄=サッカーファンが、サッカー鑑賞しながらブツブツ呟くのと変わらない怖れもある。こんな愚を犯すわけにもいくまい。心ある人、ものごとの理を知る人、知りたい人はこの本「詩の窓」をかならず読んでください、とただただ伝えたい。
 とはいえ正確を期して付け加えるならば、藤富さんが発するのは真理の言葉ではなく、「言葉の真理」である。これは重要なる違いであって、その真理の代え難さ、恐ろしさでは数段も上であった。
 世の中に真実があるならば、誤謬もあるだろう。つまり真実の言葉もあれば誤謬の言葉もある。が「言葉の真理」とは、なぜ真実の言葉があれば誤謬の言葉もあるのか、この区分を同じ言葉が発生させ、それを人が同じく言葉によって識別し、さらに言葉によって乗り越えるという言葉の真実、いわば言葉のもつ力の真理こそを、言葉の形振り、その屹然たる立ち振る舞いで示す。こうして、ひとたび「言葉の真理」が示されてしまえば、われわれは誤謬の言葉を発見して、つべこべあげつらうことの空虚、非生産なることを知り、誤謬の言葉が誤謬として立ち現れるところの、その「過程」のメカニズム=「言葉の真理」こそを厳粛、深刻に受け止めなければいけないと気づかされるのである。
 いずれ(、と水に薄めて書いてしまっているようなのだけど)ただ真実であるだけの言葉など一度使われたら捨てられてしまうのがオチである。が、問題は言葉とは捨てられても捨てられても、別の生まれ育ちである如く、何度でも這い上がり蘇生してくる。それこそが「言葉の真理」だ。こんな言葉の輪廻転生能力を、アリストテレスであれば「現実ではありえないが、可能であるもの」つまりは、デュナミス(可能態)と呼ぶであろう。現実的には誤謬でありつつ、潜在的にはきっと真実たりうる。なぜ言葉にその機敏なる転回は可能なのか。この言葉の形振りとは。
 藤富保男さんはギリシャ以来の本質的意味で無双の大詩人である、ゆえに、造形というものの核心をその形振りから、さらりと見抜く眼力をお持ちである。
 たとえば「ある詩的実験 stabileからmobileへ」。アメリカの彫刻家カルダーが昭和5年のパリで、同じく20世紀抽象芸術の始祖のひとりモンドリアンの絵から、いわゆる可動造形物〈モビール〉の想を得たというエピソードは知られているが、見かけ上はちっとも動かないタブローであるモンドリアンの絵が、いわゆる動く彫刻であるところの〈モビール〉の着想へと結びつけたものが何であるか、教えてくれる論などというものはどこにもなかった。だがカルダーにはその静止している絵が確かに動いて見えたのである。であるならばこの場合、カルダーは普通、人が現象として見ているところの運動を見たのでなく、むしろそれを見なかったといった方がいい。見ない代わりに、カルダーはモンドリアンの絵に「動き」というものが本来そこにあり得るときの形振りを、つまりひとつの可能態(デュナミス)としてある動き=可動性を見たのである。大袈裟にいえば、そのときカルダーは人類ではじめて運動というものがいかなるものなのかを発見したのだ(ニュートンが引力を発見したように)。
 藤富保男さんは、このカルダーがモンドリアンの絵から、運動を発見したという逸話を(以上のように)野暮ったく(理解しがたく)解説することなどせずに、その〈モビール〉とは何か、いきなり北園克衛の「黒い火」を挙げ、それが静止したオブジェでなく可動造形物〈モビール〉であると宣言することで提示する。(再引用すると)、

黄いろい箱/のなかに/じつにだらしのない星/と星/と/エメラルド/かなにかの正方形/の月/が出ている/ぼく/の孤独

センティメンタル/の/ドット/のなかに/あなた/といて/消えていくガラス/の縞をみている/ひと/の砂/のリボン

牛乳/や/ネオン/の塔/の/紫の髭

すくなくとも/ナイロン/の夜/を/ひとり/いて/ヴィジュアル/な風/を砕いてしまう/ぼく/の/古典的な箱/の黄いろい

 提示するだけで、藤富さんは潔く、余分な説明など付け加えない。「オブジェだけの詩とどこが違うか、そしてどこに可動性があるかなどと問われれば、一つひとつ説明はしにくい〜ゆるやかな回転の中を意味に関係なくつづいて行く語群たち」(「ある詩的実験 stabileからmobileへ」)。
 けれど、この見事な提示で、モンドリアンに潜んでいた可動性(運動)がいかなるものであったかのか。ぼくは即座に合点することができた。以下、モンドリアンの絵に詳しくないひとのために、ふたたび野暮を承知で私見を少し書いてみる。

 まず北園克衛のこの詩で誰もが気づくだろうこと。
最初のパラグラフは「黄いろい箱」という語からはじまり、最後のパラグラフは反対に、この「黄いろい箱」が解体された「古典的な箱/の黄いろい」という語で終わっていること。そしておそらくそのことで内部と外部の空間が逆転してしまったような感覚、いわば自分を包んでいる世界に切れ目が入って世界が裏返り、いつのまにかそれを包んでいる外側に自分が移行してしまったような奇妙な感覚、を得る。
 四つのパラグラフはそれぞれ類似した語(ときに共通する語)をもちつつ、その単語相互の空間的内属関係=入れ子関係は同じではない。エメラルドやナイロンやビジュアルやドットなどの単語は、「の」「なかに」「と」「な」などの助詞で連結されることで、ただの併置ではなく、入れ子状に他の語(空間)を相互に包含したり、されたりの相互の内属関係、空間順序を形成している。最初のパラグラフで「星たち」および「なにかの正方形の月」が存在する世界は、おそらくすべて「黄いろい箱の中」に入っている。次のパラグラフではすべてがドットのなかで起こり、そのドットのなかに、あなたと一緒にいるひとは消えていくガラスの縞を見ている、という具合。
 ここでそれぞれの単語はただの概念(モノの名=オブジェ)であるのではなく相互に、入れ子状にほかの単語を内包する箱、空間でもある、この箱がパラグラフごとに異なる順番で、組み換えられている。箱をどんどん開けていくように読みすすんでいると、あげくの最後には、そのすべての外にわれわれはでてしまう。いわば「ヴィジュアル/な風/を砕いてしまう」という語句とともに。
 この構造はモンドリアンの絵でも同様である。
モンドリアンの絵はただ平面の上を縦横に線が横切っているわけではないし色面が並列されているわけではない。つまりその絵は単なる一つの平面ではない。複数の線の交錯は『+』や『T』などの緊結した形態を作りだし、それぞれがユニットとして一つの平面を形成し、その複数の形態、平面が、層として重なり、互いに「あやとり」か「組み木」の如く絡み合って、一種の三次元空間を生みだしている。つまりここにも入れ子状の積層関係、階層関係がある。
 モンドリアンの絵が動いて見えるのは、この順序が可変的で組み替え可能であると感じられるからである。感じられるのではない、われわれの視点はこの絵の階層を上ったり、降りたり、いちばん奥まで入ったかと思うといちばん手前にあって、つまりわれわれはこの錯綜したあやとりのような空間の中を自由に動きまわる。モンドリアンの絵(それを構成するユニットたち)はまさにわれわれを「ゆるやかな回転の中を意味に関係なく」(同前)収縮自在にとりまき転回しているのであった。
 空間が空間と感じられること、運動が運動であると把握されるのは、そこに識知される概念(オブジェ)の自在で可変的な従属関係、論理階層の組み替え可能性が感知されることによる。論理階層とは、対象を認識する自分の視点――いわば、自分はここに在るビルディングの何階にいるか――という視点の階層性に基づき、そしてなぜ視点が階層性としてだけしかありえないか、それは、われわれが決して、このすべてを眺める外部――いわばビルディングの外、空中から眺める達観した視点などを得ることはできず(そんなものはなく)、つまり同時に一階と二階、別の階にいることはできず(そのうちのどこかの階にしか、その都度いることができない)、だから一生懸命、階段を上ったり降りたり、そのビルの全体の在り様は自らの身体(頭も含む)を酷使してしか知ることができないというのが理由である。
 これがアリストテレスの発見した論理学、言葉の真理である、二階でできることは三階でできるとは限らない、だがゆえに三階の現実ではありえないことが、別の階では可能であるということもありえる。階段を登るとは、いうまでもなく他の階があるからであり、その別の階の存在が確かであるからである。階段の存在はデュナミス(可能態)そのもの、まさに「その論理転換の過程」そのものを提示するものとして目の前、足の前にあらわれる。詩はいわば言葉を、引き出しの箱のように積み上げて、言葉の階段、論理をつくるのである。

ぼくの詩はあらかじめ箱の中に入っていない。あとで箱の中に入るのでもない。箱の形か桶の形か傘の形になっていくのである。ポエジィはそれをそれと意識できたり、できかなかったりする感覚である。だからポエジィは説明しない。ただ言語と言語が取引をする関係を感性がとらえるまでである」(「ドアを開けてみたが、」本書所収)

あらかじめある箱のなかに言葉が納まっているのではない、言葉そのものが、箱であり桶であり傘なのである(どれも空間を内包する論理の器そのものでもある)。これらの箱と箱、言葉と言葉の取引する関係を編み出すことこそが、哲学を生みだす言葉の真理としての、詩の論理学である。
 話は変わるけれど、この思想は、ドアや窓、箱といった単語が使われているから、というわけでなくても、よりよき建築の設計の核心であった。(建築はモノをつくるのではない、さまざまな行為の過程を可能にする論理の入れ子をつくるものだからである)。

従って一切が過程であって、「過程する」ということがすべてと言ってもいい。(同前)

単一なことを平面的な一つの事実として叙述しないことである。多角的に終結させて、これを放射状に発射することを指すとでも言えば言えないことはない。一種の意識的組立て作業と破壊工作の合成事業である。ポエジィのおもしろさは曖昧なことである。飛躍は格別に貴重である。当然の理の饒舌もギャクもそうである。まやかし、いい加減性もそうである。これら一切は捉え難いが、それでいて明確な雰囲気を作るのである(同前)

 モンドリアンの絵のような、当然の理がにもかかわらず饒舌なのは、理とは話されること、つまりそれが操作される過程=それを能動的に見るという「過程すること」においてのみ、真理となるからである。それが捉え難いというのは、静止したオブジェとして、その絵画を観察しようとしていたからにすぎない。そこに暮らす人間や動物にとって、(静止した目から)見た目のごちゃごちゃの混乱、曖昧さはむしろ明晰かつ断固とした決断を可能にする空間、すなわち明確な雰囲気として現れる。いや反対に見た目はいかなる明晰なる構造物でも、どこにでも身を潜ませることのできる迷路のような環境として存在している。猫などの動物たちにとってはこれが自明の理である。
 詩は(造形も建築も)、このおおいなる過程の、論理生成術として、つまりに(ここにはないが、きっとありうる)可能な何ものかを思う精神の自由=心を確保する理そのものであった。とはいえ以上は、はじめに述べたように、水で薄めた付け足しである。
言葉の真理がいかなるものか、そのアロマ・ナンバーワンやナンバーツウを賞味したくあれば、ゼヒとも本書「詩の窓」を読まれたい。藤富保男の詩の秘密はここに蒸留されている。

────────────『現代詩手帖』2012年10月号(思潮社) に掲載── 藤富保男『詩の窓』 発刊に際して書かれた。

→「詩という認識」 岡﨑 乾二郎 現代詩手帖 2009年 03月号 思潮社






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