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俳句のいさらゐ ◈∔◈ 松尾芭蕉『奥の細道』その十九。「笠嶋はいづこさ月のぬかり道」


芭蕉が行きたかった笠嶋とは、平安朝 ( 紫式部と同時代人 ) の一頭抜きん出た歌人、藤原実方ゆかりの土地である。そのことは後で語ろう。
先ず、『奥の細道』の中で、藤原実方の名を出してはいないが、藤原実方を思わせている部分が、笠嶋の部分より前にあることを指摘しよう。
現在の栃木県、室の八嶋明神参詣の記述のところである。なお付記すれば、下の文中の火々出見 ( ひこほほでみ ) のみこと、とは、青木繁の名作「わだつみのいろこの宮」に描かれている山幸彦である。

室の八嶋に詣す。同行曾良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八島と申。又煙を読習し侍もこの謂也」。

松尾芭蕉『奥の細道』より

「又煙を読習し ( ※詠み倣いし ) 侍( はべる ) もこの謂 ( いわれ ) 也」とは、
和歌で室の八嶋といえば、煙とつながるのは、この謂れがあるためです
という意味だ。
室の八嶋と煙の組み合わせの代表的な例が、藤原実方の下に引いた和歌である。

いかでかは思ひありとも知らすべき室(むろ)の八嶋(やしま)のけぶりならでは               藤原実方 「詞花集」より
■歌意   
燃え続けているという室の八嶋の煙ならば叶いますが、私の思 ひ= 恋の火( ひ ) は目に見ることは出来ないのです。あなたを思 ひ 慕っていると⇒ 恋の火 ( ひ )  が燃えていると、どのようにすれば、あなたにわかってもらうことが出来ましょうか。

和歌は藤原実方「詞花集」より 歌意解釈は筆者による

『奥の細道』では、曽良が室の八嶋が歌枕である理由を芭蕉に教えた場面になっているが、芭蕉がふんふんと門人の話に耳を傾けている様子にする方が柔らかい場面になるからだ。
実際のところは、室の八嶋=煙という和歌の約束事の知識が二人の教養のうちにはあって、八嶋明神参詣の場で、この地についてはこんな和歌がありましたね、と二人が語り合うことがあったのだろう。
実方ゆかりの笠嶋を訪れた西行が、実方をしのぶ歌を詠んでいることもあり、ぜひ訪ねようと、歌枕の地笠嶋まであと一里の処まで近づいていた芭蕉なのだから、室の八嶋に行こうとした際は、実方の和歌が脳裏に浮かんでいたに違いない。
また、同じ着想からなる実方の代表的な和歌がある。これもまた芭蕉の詩嚢には納まっていた和歌だろう。

かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを
                 藤原実方『後拾遺和歌集』恋一612

結局雨の降りが激しく断念して、笠嶋へは行けなかった理由を俳句に詠んだ。その分、嘱目吟に魅力がある『奥の細道』の中では、力のない俳句になっているのは否めまい。
行けなかった場所について書いているのは不思議である。それだけぜひとも、藤原実方に触れたかったということだ。左遷とも見られているが、陸奥守として赴任した藤原実方が、三年ほどでこの地に没した哀れさが、芭蕉の心をとらえるのだろう。実方は、笠嶋道祖神の前を下馬せず通ったとき、馬が急に倒れ馬から落ちて亡くなった、つまり祟られたと言い伝えられている。

もちろん、実方を慕う芭蕉の心中には、実方の和歌に惹かれる気持ちが前提としてある。もう一首、実方が亡き友藤原道信を追悼した和歌を引いておく。
見むといひし人ははかなく消えにしをひとり露けき秋の花かな
                藤原実方 『後拾遺和歌集』哀傷ー570

初めから意中の人物 ( 故人 ) がいて、ゆかりの地へと足を向けるその行動パターンは、『奥の細道』を通して見られ、この紀行を構成する大きな要素だ。列挙する。
◎ 禅の師である仏頂和尚の没した下野国雲巌寺を訪ねる
◎ 義経に従った佐藤兄弟の故地を見んと飯塚を訪ねる
◎ 和泉三郎忠衡の事跡をしのぶため陸奥の塩竃明神を訪ねる
◎ 義経の最期の地を見んと平泉を訪ねる

芭蕉が文中で、「『かた見の薄、今にあり』と教ゆ。」と書いている、その薄とは、笠島に来て実方の面影をしのんだ西行の和歌のことである。

朽ちもせぬその名ばかりを留め置きて枯野のすすき形見にぞ見る  西行

芭蕉の胸にあったこの和歌は、『奥の細道』の中の名吟「夏草や兵どもが
夢の跡」の心情的母胎のように見えて来る。
実際に見なったがゆえになおさら、笠嶋の《かた見の薄》のイメージは、芭蕉の胸中に、文学的な香気を以て広がったことだろう。それが、平泉での吟の水脈になっていると思う。
                                                                  令和6年6月        瀬戸風  凪
                                                                                                  setokaze nagi




 

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