瀬戸風 凪

名画の面白い見方を探索の散歩人です。中でも北斎の「富嶽三十六景」連作の読み解きは、これ…

瀬戸風 凪

名画の面白い見方を探索の散歩人です。中でも北斎の「富嶽三十六景」連作の読み解きは、これまでの北斎の絵解きでは、最もサブカルチャー的と自負してます。 もうひとつのマストは、青木繁と明治近代洋画。ブラボー青木繁!の拍手を添えて、青木繁に問いかけています。どうぞその仲間になりませんか🌞

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    松尾芭蕉の俳句が、上質のエピグラム(寸鉄詩)であることを探ります。

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    • 俳句のいさらゐ ❁✣❁ 松尾芭蕉『奥の細道』その二十七。「石山の石より白し秋の風」

      「石山の石より白し秋の風」は、現在石川県小松市の那谷寺での吟。 『奥の細道』の旅のあと、「石山の石」で始まるもうひとつの俳句が芭蕉にはある。元禄三年 (『奥の細道』の旅は、元禄二年 ) 、近江石山寺を詠む。 その俳句は、 「石山の石にたばしるあられ哉」 私もかつて早春の近江石山寺を訪ねたことがあるが、むき出しの石塊とその白さが、確かに眼に残った。 『奥の細道』で使った同じ言辞を再び用いているのだから、石山という呼称の、簡素明快で、雅趣を帯びない点に詩人芭蕉は惹かれていると

      • 俳句のいさらゐ ◈✇◈ 松尾芭蕉『奥の細道』その二十六。「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」

        「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」をもって、『奥の細道』は閉じられる。先ずはこの俳句の技巧を見ておこう。 「蛤のふたみにわかれ」にいう蓋と実は、次の意味で掛詞となっている。 ◙ 『奥の細道』には、この俳句の前文に「駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る ( 中略 ) 旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて 」とあって、大垣に集まった門人とも、すぐに彼我、二つの身となって別れてゆくことだ

        • 俳句のいさらゐ ❀◌❀ 松尾芭蕉『奥の細道』その二十五。「浪の間や小貝にまじる花の塵」

          これは、私独自の見解だろうと思っているが、敦賀の種の浜で詠んだこの俳句は、象潟のおとないをなぞっているようであり、場面の仕立てもいわば双子のようである。 意識した組み立てであり、同じ曲想を持った異曲だと言ってもいい。 比べてみよう。以下、象潟を◉、種の浜を❖で示す。 ◉ 「其朝天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ」 ❖ 「種の浜に舟を走す。海上七里あり」 ◉ 「《花の上こぐ》とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす」 ❖ 「ますほの小貝ひろはんと」 ◉

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        • 俳句のいさらゐ ❁✣❁ 松尾芭蕉『奥の細道』その二十七。「石山の石より白し秋の風」

        • 俳句のいさらゐ ◈✇◈ 松尾芭蕉『奥の細道』その二十六。「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」

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          俳句のいさらゐ ∔✴∔ 松尾芭蕉『奥の細道』その二十四。「夏山に足駄を拝む首途 ( かどで ) 哉」

          『奥の細道』の俳句の特徴として、物に魂がこもる、あるいは霊験が宿ると信じる思想が、かいま見える点が挙げられる。もちろんそれは芭蕉特有の思想ではなく、近代以前の人々は、違和感なく持っていたであろう思想である。いわんや今日でもそれは、人々の精神の底流にはあると言っても間違いではないはずだ。 では、『奥の細道』の特徴だと指摘したのはどういうことかというと、信奉の対象となる物が、芭蕉の俳句では、俄然類例を見ない個性的な把握になっていることである。そしてそれが、物語への架け橋になってい

          俳句のいさらゐ ∔✴∔ 松尾芭蕉『奥の細道』その二十四。「夏山に足駄を拝む首途 ( かどで ) 哉」

          俳句のいさらゐ 🏳✍🏳 松尾芭蕉『奥の細道』その二十三。「蚤虱馬の尿 (ばり) する枕もと」

          今回は、私の解釈の結論から言う。 この俳句の主題は、馬の尿の音である。よって、「尿」の読みは、「しと」ではなく、馬が尿をするときの音をそのまま伝えているような「バリ」である。 そう解釈する理由は、『奥の細道』で、このあとに続く俳句に潜んでいる。まず、この馬の尿の ( バリバリ ) という音を念頭に置き、『奥の細道』を読み進める。 次の尾花沢での芭蕉の俳句は三句あるが、うち一句が ① 這ひ出よかひやが下のひきの声 である。ひき ( 蟇蛙 ) の ( グワッグワッ ) という鳴

          俳句のいさらゐ 🏳✍🏳 松尾芭蕉『奥の細道』その二十三。「蚤虱馬の尿 (ばり) する枕もと」

          俳句のいさらゐ ∮⦿∮ 松尾芭蕉『奥の細道』その二十二。「松島や鶴に身をかれほととぎす」(曽良)

          この俳句の「ほととぎす」の受け止め方には、異なる次の解釈が出来る。 一。 聞き止めたその声の美しさに旅の愁いを慰められて、松島の広さに行き渉るように、鶴と化して舞い、その声を大景に響かせてくれないものだろうか、という気持ちを詠んだ。土地褒めの意味合いが強い。 二。 「ほととぎす」に、不如帰の当て字を暗に連想させていて、〈帰るに如かず(帰りたい)〉という気持ち — つまり心弱り ( 里心 ) に、一瞬包まれたことをその字にしのばせた。 しかし、まだ旅は続くのだから、そんな心

          俳句のいさらゐ ∮⦿∮ 松尾芭蕉『奥の細道』その二十二。「松島や鶴に身をかれほととぎす」(曽良)

          俳句のいさらゐ ☬◙☬ 松尾芭蕉『奥の細道』その二十一。「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」

          湯殿山での吟、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」は、さっと読み飛ばされてしまう俳句だろう。句の姿は伝統的に、端正に整っているから、つまらない俳句に見えて来る。 湯殿山神社を参拝した者は、掟として見たさまを語ることは許されない。今その秘儀を賜っているありがたさに涙がこぼれる、という意味だと諸本は解釈している。 しかし私には、そういう、説明に堕しかねないことを詠んでいるだけなのかという疑問が大いにわく。 その疑問を持って俳文の方を詠むと、参道の山道で遅桜の花に心を奪われたこと、その

          俳句のいさらゐ ☬◙☬ 松尾芭蕉『奥の細道』その二十一。「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」

          俳句のいさらゐ ◬∬◬ 松尾芭蕉『奥の細道』その二〇。「あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ」

          「あつみ山」は、漢字表記では温海山。わかった上でひらがな表記にしているはずだ。その理由は、「温海山」とすれば、あとの俳句を「暑き」と始めているので、「温」「暑」が字面的にひっかかりを感じさせるために、あえてあとの俳句の「暑き」と音で重なるように「あつみ」と表記している。 また、そうすることで、「あつみ山」が「暑き日」を呼び起こす効果を意図し、翻って「あつみ山」の字句にも、暑さのイメージがこもっているように感じ取れるという効果もある。 さらには、「あつみ山」の《 あつみ 》は

          俳句のいさらゐ ◬∬◬ 松尾芭蕉『奥の細道』その二〇。「あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ」

          俳句のいさらゐ ◈∔◈ 松尾芭蕉『奥の細道』その十九。「笠嶋はいづこさ月のぬかり道」

          芭蕉が行きたかった笠嶋とは、平安朝 ( 紫式部と同時代人 ) の一頭抜きん出た歌人、藤原実方ゆかりの土地である。そのことは後で語ろう。 先ず、『奥の細道』の中で、藤原実方の名を出してはいないが、藤原実方を思わせている部分が、笠嶋の部分より前にあることを指摘しよう。 現在の栃木県、室の八嶋明神参詣の記述のところである。なお付記すれば、下の文中の火々出見 ( ひこほほでみ ) のみこと、とは、青木繁の名作「わだつみのいろこの宮」に描かれている山幸彦である。 「又煙を読習し (

          俳句のいさらゐ ◈∔◈ 松尾芭蕉『奥の細道』その十九。「笠嶋はいづこさ月のぬかり道」

          俳句のいさらゐ ▧⊛▧ 松尾芭蕉『奥の細道』その十八。「笈も太刀も五月にかざれ紙幟 ( かみのぼり ) 」

          多くの解説書では、名吟とも評されず、深く触れられてはいない俳句である。前文から俳句の意味はわかるようでありながら、先ず気にかかる言葉がある。紙幟 (かみのぼり ) とは何か。なぜそれを飾れと言うのか。 参考になる図版がある ( 下の図 ) 。 井原西鶴の『武家伝来記』の挿絵に描かれている旗状のものが紙幟である。『武家伝来記』は、貞享四 ( 1687 ) 年の発行で、『奥の細道』の旅が、元禄二 ( 1689 ) 年だからまさに同時代で、当時の江戸の風俗がうかがい知れる。 江

          俳句のいさらゐ ▧⊛▧ 松尾芭蕉『奥の細道』その十八。「笈も太刀も五月にかざれ紙幟 ( かみのぼり ) 」

          俳句のいさらゐ ⋓◍⋓ 松尾芭蕉『奥の細道』その十七。「一家に遊女もねたり萩と月」

          「一家に遊女もねたり萩と月」                      芭蕉『奥の細道』より 省略が極みに達しているこの俳句の解釈は、むつかしい。しかし、解釈したい気持ちに誘われ続けていた俳句である。 この俳句の着想点は、作者のこういう感情に発するだろう。  ■ 遊女のいる処と言えば、岡場所 ( 非公認の遊里 ) であって、こちらから  そこへ出向いて行って会うものが遊女と思ってきたが、長旅ゆえの、一所  不在の宿りを続けていると、自分と同じ旅客同士として遊女に出会い、色

          俳句のいさらゐ ⋓◍⋓ 松尾芭蕉『奥の細道』その十七。「一家に遊女もねたり萩と月」

          さてもさてもの日本古典 🔮『平家物語』④ 和歌を残し消えゆく平経正

          事実を伝えるを旨とする現代のルポルタージュでは、ある人の、人生の最期に立ち会ったとしたら、あるいはその場にいた信用できる人からの伝聞によるものであっても、多少は筆を抑えるかもしれないが、基本的には、「わめいた」とか「泣き悲しんで」とか「無言のまま」とか、見たまま、聞いたままを描写するだろう。それは、そこに人間の本態を見ようとするからだ。 『平家物語』を読んでいて気づくのは、滅びてゆく平家一門の人々の合戦場において、最期に発したことばが書かれている人と、いない人に分かれるとい

          さてもさてもの日本古典 🔮『平家物語』④ 和歌を残し消えゆく平経正

          俳句のいさらゐ ◬👁◬ 松尾芭蕉『奥の細道』その十六。「涼しさを我宿にしてねまる也」

          今回は、尾花沢での芭蕉と曽良の俳句を解釈する。 先ず、芭蕉の最初の俳句「涼しさを我宿にして ねまる也」の「涼しさ」は、宿を提供してくれた人物の名、清風に通わせた言辞である。あなたの名のとおりのすがすがしい宿です、と感謝の意をこめた。芭蕉は、人や土地の名を、俳句の中に生かすという意識が大いにあったと言えるだろう。 例を挙げれば芭蕉の『更科紀行』中の俳句に、 「いざよひもまださらしなの郡( こおり )哉」 があり、その「さらしな」は更科の地名に、去らじな ( 未だ去らず )

          俳句のいさらゐ ◬👁◬ 松尾芭蕉『奥の細道』その十六。「涼しさを我宿にしてねまる也」

          俳句のいさらゐ ■⇋■ 松尾芭蕉『奥の細道』その十五。「行ゝ(ゆきゆき)て たふれ伏すとも 萩の原」(曽良)

          この曽良の俳句で、おやと目に止まるのは、「萩の原」である。なぜ、倒れ伏すことがあろうとも、萩の花の野原をそこに思い描いているのか。 芭蕉と曽良の間には、この俳句の前振りのようなひとつの経歴がある。貞享四年のことだから、『奥の細道』の旅の二年前の秋、芭蕉 ( 44歳 ) は曽良と宗波 ( 禅僧 ) をともなって、『奥の細道』の旅の予行版であったかのように、常陸国鹿島に筑波山の名月を眺めんと出立した。結局雨にたたられて名月を見ることは叶わなかったが、のちに紀行 (『鹿島詣』)

          俳句のいさらゐ ■⇋■ 松尾芭蕉『奥の細道』その十五。「行ゝ(ゆきゆき)て たふれ伏すとも 萩の原」(曽良)

          俳句のいさらゐ ◉↹◉ 松尾芭蕉『奥の細道』その十四。「波こえぬ契ありてやみさごの巣」(曽良)

          曽良のこの俳句を、『奥の細道』象潟の段の掉尾に置いた意味を考えていて、第一句である芭蕉の吟「象潟や雨に西施がねぶの花」に響かせていることに気づいた。 その「象潟や 雨に西施が ねぶの花」の方から見よう。 俳句に詠まれている西施とはこういう女性だ。越王・句践( こうせん )が、実力で及ばない敵、呉王・夫差( ふさ )の力を削ぐため、絶世の美女を贈り、その色香の虜にして政治を疎かにさせ、臣下との軋轢 ( あつれき ) を生じさせる策を企てた。 その企 ( たくら ) みは成功し

          俳句のいさらゐ ◉↹◉ 松尾芭蕉『奥の細道』その十四。「波こえぬ契ありてやみさごの巣」(曽良)