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俳句のいさらゐ ∔✴∔ 松尾芭蕉『奥の細道』その二十四。「夏山に足駄を拝む首途 ( かどで ) 哉」


『奥の細道』の俳句の特徴として、物に魂がこもる、あるいは霊験が宿ると信じる思想が、かいま見える点が挙げられる。もちろんそれは芭蕉特有の思想ではなく、近代以前の人々は、違和感なく持っていたであろう思想である。いわんや今日でもそれは、人々の精神の底流にはあると言っても間違いではないはずだ。
では、『奥の細道』の特徴だと指摘したのはどういうことかというと、信奉の対象となる物が、芭蕉の俳句では、俄然類例を見ない個性的な把握になっていることである。そしてそれが、物語への架け橋になっているところである。

 1965年 保育社刊 大竹新助著「奥の細道」より 黒羽那珂川の眺め


「夏山に足駄を拝む首途 ( かどで ) 哉」では、高下駄=足駄を拝んで、ここからが心すべき旅だと意気込んでいる。御神体を拝むのと同じ感覚で、足駄を使っているのが先ず面白い。
黒羽で案内された光明寺行者堂に、足駄を掃いた役行者像が据えてあったのだから、実景を詠みこんでいて、足駄を無理に俳句に持ち込んだわけではないのが、この俳句を奇異なものにしていない要素だ。
物に魂がこもる、あるいは霊験が宿ると信じる思想が、かいま見えると感じられる『奥の細道』の俳句を挙げておく。いくつかの俳句は、この「俳句のいさらゐ」シリーズで取り上げて来た。ぜひその記事にあたってほしい。
     
       ◆ 卯の花をかざしに関の晴れ着かな ( 曽良 )
       ◆ 世の人の見付ぬ花や軒の栗
  ◆ 笈も太刀も五月に飾れ紙幟
       ◆ あやめ草足に結ん草鞋の緒 
  ◆ 秋涼し手毎にむけや瓜茄子
  ◆ 物書いて引さく余波哉
       ◆ 月清し遊行の持てるの上

「夏山に足駄を拝む首途 ( かどで ) 哉」は、単独で味わうだけではなくて、『奥の細道』の全体の構成の中に置いて眺める必要があると思う。そうすれば見えてくるものがある。奥羽の山道を越えて行った役行者たちの姿を思っているわけだが、これから向かおうとしている大きな目的地が、松島でありまた平泉であることを併せて考えれば、足駄に見ている芭蕉の幻想には、源義経主従、とくに弁慶の姿が浮かんでいると感じられる。

義経主従は、役行者=山伏に偽装して平泉をめざしたのであったなあ。もしかしたら、主従がたどったかもしれない同じ行路を、自分も踏みしめてゆくのだろう。これからゆく先々で義経ゆかりの旧跡をぜひ見つめたいものだ。
という芭蕉の思いが読み取れる。それは、江戸にいたときからの、芭蕉の奥羽憧憬の核心であったと思う。
そのように見れば、この俳句が、次の、佐藤庄司が旧跡での俳句、平泉での俳句に響いて、俳句に厚みを与えているいると読めるのだ。

つまり、『奥の細道』全巻を眺め見たとき、このあとの俳句にも続いてゆく、いわば義経追慕物語のうちの一句だと思える。この義経追慕物語は、『奥の細道』に伏流として仕掛けられている。
芭蕉の慕った義経は、室町時代に成立したという『義経記』の描く義経である。芭蕉の生きた時代には、盛んに出版され「判官びいき」は、庶民の間に浸透していた。

もちろん、この幻想は芭蕉自身の旅の愉しみ方であったとともに、『奥の細道』を読者にとって生き生きとした文芸作品にするために、滋味豊かにふくらませる創作術である。読者は、芭蕉の旅を追いつつ、同時に義経の悲劇の後半生に思いをはせる。
『奥の細道』中の、義経追慕物語の俳句と読み取れるのは次のとおり。

1965年 保育社刊 大竹新助著「奥の細道」より 奈古の浦沿いの松林

 ① 佐藤庄司が旧跡での俳句      笈も太刀も五月に飾れ紙幟
 ② 平泉での俳句         夏草や兵どもが夢の跡
                  卯の花に兼房見ゆる白毛かな( 曽良 ) 
 ③ 那古の浦での俳句       わせの香や分け入右は有磯海
 ※「義経記」に奈呉
 の林として出る。
 ④ 篠原での俳句          むざんやな甲の下のきりぎりす
 ※「義経記」では篠原
 に泊まった義経もまた、
 斉藤実盛末期のさまに
 哀れを催したとある。
 義経の思いに同化して
 いると言えるだろう。         
 ⑤ 越後路での俳句         荒海や佐渡によこたふ天河
 ※「義経記」では直江湊
    から船を出したが波が荒
    くいったんは佐渡をめざ
     すとある。
   ⑥  敦賀での俳句                                  名月や北国日和定めなき
     ※「義経記」に出羽国へ
  行く船が天候不良で阻ま
  れ、風待ちをした港とし
     て敦賀の名が出る。 

『義経記』の描く義経の平泉までの逃避行の行路には、日本海側の地名が出て来る。そして酒田を折り返して大津へ向かう芭蕉の『奥の細道』の復路は、義経の平泉をめざす道のりに交錯している。

義経ゆかりの地での吟が、上の③ ④ ⑤ ⑥ の俳句である。① ② の俳句にあるような義経の故事が表には出てこないのだが、江戸時代の俳諧愛好者には、『奥の細道』で芭蕉が見て来たものは、『義経記』の舞台であることを感じ取っていたに違いなかろう。『義経記』を丹念に読めば、『奥の細道』に出て来る地名や歌枕の地が、いくつも読み取れる。
たとえば「松島」や「姉歯の松」や「羽黒山」、義経に同行した北の方がその地で出産したという「尿前の関」( 芭蕉はここで俳句を詠んでいる )、「最上川瀬々の岩波堰き止めよ寄らでぞ通る白糸の滝」とその北の方が詠んだ歌もある。

日本海の荒れと、日本海側地方の天候の不順を、本文で述べ俳句にもしている芭蕉の心底には、義経主従の逃亡が再三船出を阻まれた無念を思う心情が潜んでいる。
平泉を訪ね、義経主従の最期を思って憂愁の思いに満たされた芭蕉であるから、なおさら、彼らを待っていた非業の宿命を知らず、ひたに平泉をめざした義経主従のあわれが、身につまされたであろう。

           令和6年7月          瀬戸風  凪
                                                                                                setokaze  nagi



       

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