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俳句のいさらゐ 🏳✍🏳 松尾芭蕉『奥の細道』その二十三。「蚤虱馬の尿 (ばり) する枕もと」

今回は、私の解釈の結論から言う。
この俳句の主題は、馬の尿の音である。よって、「尿」の読みは、「しと」ではなく、馬が尿をするときの音をそのまま伝えているような「バリ」である。

そう解釈する理由は、『奥の細道』で、このあとに続く俳句に潜んでいる。まず、この馬の尿の ( バリバリ ) という音を念頭に置き、『奥の細道』を読み進める。
次の尾花沢での芭蕉の俳句は三句あるが、うち一句が
 這ひ出よかひやが下のひきの声
である。ひき ( 蟇蛙 ) の ( グワッグワッ ) という鳴き声が浮かぶ。

読み進めて、次の立石寺の俳句が
 閑さや岩にしみ入蝉の声
である。蝉の ( ミーンミーン ) あるいは ( ジーッジーッ ) あるいは ( シャーシャー )といった音が聞こえる。

さらに読み進むと、最上川の俳句
③ 五月雨をあつめて早し最上川
である。川の流れは表現はしにくいが、一般的な表現で言えば ( ゴウゴウ ) とか ( ザバッザバッ ) という音が想像される。

つまり、平泉をあとにして、現在の宮城県の玉造郡岩出町に入ったところから、山形県に進み尾花沢、立石寺、大石田 ( 最上川 ) までの旅路は、連続して、俳句の主眼に音を意識していることがわかる。

明治45年刊 田山宗尭 編「日本写真帖」より 立石寺
明治45年刊 田山宗尭 編「日本写真帖」より 最上川

事象を詠めば、そこに何らかの音は付随しているものだと言われるだろうと思う。私もそう思い『奥の細道』全俳句を当たってみたが、誰もが共通して思い抱くであろう音がはっきり聞こえてくるのは、次の俳句くらいであることに気づいた。

⓸ 行春や鳥啼き魚の目は泪   ー 鳥の啼き声
⑤ 暫時は滝に籠るや夏の初   
ー 滝水の音
⑥ 湯殿山銭ふむ道の泪かな   
ー 銭の音
⑦ 荒海や佐渡によこたふ天河  
ー 大きな波の音
⑧ 浪の間や小貝にまじる萩の塵 
ー さざ波の音

上に挙げた④から⑧は、音をクローズアップし、主眼にしているとは言えない。それに比べ、①から③の俳句は、音が主眼であることが明確である。
芭蕉は、『奥の細道』の旅の中でも、最も鄙びた、悪く言えば人家も希な僻地を通らざるを得ないこの道筋  ( この間は、現在においても『奥の細道』のルートをたどる者には、時間を費やされる行路であろう ) では、動物や自然が発している音に鋭敏になったのだと思う。それは芭蕉の直感と言える。

大きな先入観がこの俳句を閉じ込めてはいないだろうか。
その先入観とは、「蚤虱馬の尿 (ばり) 」という言辞は、芭蕉が旅の苦労を強調するために、不快感を表現したという視点である。
しかしこの章の俳文には、関を抜ける苦労や、雨天で足止めされた不満が書かれてはいるが、宿で不快な思いをした旨の記述はない。唐突に俳句で「蚤虱」と出てくる。
もちろん「蚤虱」というのだから、快適なはずはないが、俳句から受けるノミ、シラミの部分だけのイメージに影響されて、しかめっ面の芭蕉を思ってしまっているのではないか。
ともあれ、こういう文である。

南部道遙にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎・みづの小島を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼ つて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す 。
 蚤虱馬の尿 ( ばり ) する枕もと

 俳句の方だけにある「蚤虱」に、この宿において、寝ることもできないほどに苦しめられた状況と連想しがちなわけだが、そういう意味なのだろうかと疑問を持って立ち止まってみたい。
 
 夏衣いまだ虱をとりつくさず 
              貞享二年『野ざらし紀行』より
という芭蕉の俳句がある。九か月間に及んだ漂泊『野ざらし紀行』の掉尾を飾る俳句である。
この俳句から考えれば、芭蕉が語る「虱」は、旅に日を重ねていること、そのつらさの代名詞的に使われていることばであると見るほうが、ふさわしいと思える。

また先述したように、「蚤虱馬の尿 ( ばり ) する枕もと」は、馬の尿 ( ばり ) の音が主眼の俳句と考えれば、「蚤虱」は、馬小屋と人の居住空間が近接し、人馬が一つの家で寝食を共にして暮らしている民家の土俗性を強調し、馬とともに一晩を過ごしているのだなあ、馬の肌のぬくもりが漂うようだと感じた面白さを伝え、これも一種の旅情ととらえているというふうに見えて来る。

この感覚は、『奥の細道』の旅で、ここへ来るまで幾度も馬に乗り、馬に親しみ、ありがたさがよくわかっている近世の旅人としての芭蕉の感覚であり、現代人はそれを肌身の実感とする機会を失っていると言えるだろう。

卑俗なレベルの説明になるかもしれないが、昭和30年代いっぱいあたりまでは、日本の地方では、田畑の畦道には、肥え溜めの匂いが漂い、至る所に見られた鶏舎からの鶏糞の匂いが流れ、家には土間や三和土 ( たたき ) からのぼる土埃の匂いや、干した沢庵の饐えたような匂いがしみついていた。畳を蚤がかじった跡なども見るのはそうめづらしいことではなかった。
まさに、鼻先に残る強い匂いに囲まれて、それに慣らされた暮らしが日常にあったのだ。それを、不潔極まりないものという感覚は持ちようもない。

そういう時代の匂いの感覚は、忘れられているか、まったく知らないか、ともかく現在では想像できなくなっており、清潔な空間の中にいてこの俳句を読むとき、蚤虱や馬の尿などという字面から、不快の色合いが先行してしまうのである。

             令和6年6月       瀬戸風  凪
                                                                                            setokaze nagi


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