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091 ここ最近における、パトスの炊き込み炊飯ジャー

時刻は深夜1時になりました。

颯爽と過ぎていく日々に意味を付け加えるかのようなこの活動も、目標としていた100本まで残り10本。

その意味を探しに、新たな場所・経験をこの数か月求めていた私に、いつもの活動である塾の予習として解いていた英語長文がこう述べていた

Whatever we find when we travel is only what we had inside us all along.

なるほど。

「自分探しの旅」なんてものは、新たなものを見に行っているようで、元来私の中に封じられていた何かを呼び起こすだけの動きに過ぎないのかもしれない。

ただ、呼び起こしたくないものも呼び起こさせるトリガーは邪魔なものだ。(01:10)



非対面型のコミュニケーション

90本目を書こうとの動きを促進させたのは、10/2の内定式であった。

あの日に思ったことのすべては、さすがにここには残せない。なぜなら、まだ彼らのことを分かった気になれるほど対話が行えていないからである。

内定式でのエピソードは、大阪でお酒の失敗をした話と同じくらい、古典作品として残せそうなので、気になったら聞いて下せえ。


最近、またしても新たにこのnoteを読んでいると教えてくれた人に出会った。出会ったと言っても、バイト先の後輩たちであるから、出会ったという表現は不適切であろうか。

けれど、彼女らとこのnoteを介した話題をするのは久しぶりで、むしろ初めてで、だからこそ「出会えた!」のような気持ちになったわけだ。

なるほど。そこそこ影響をもたらす活動にまで成長したのだなと、彼・彼女らと退勤後に別れて一人の帰路で少し思う。

ある本で読んだことを紹介してみたい。


「文章」というものには必ず筆者が存在する。

ある人が書いた文章を読み、味わう時、読み手に当たる人は筆者とコミュニケーションを取ることになる。けれど、この対話には対面型との大きな違いがあり、それは、言葉というものが筆者から一度切り離された形でそこに存在しているということである。

言葉を文章としてこのように残せるということは、まるで時間旅行をするような体験をさせてくれる。

言葉を介して、昔の私とコミュニケーションを取ることも可能になる。

また、人とのコミュニケーションにおいて、最も労力をかけることなくそれを行えるのが、このように文章を読むということである。

筆者の言葉というものは、一方的に存在しており、読み手に当たる我々(今であればまさに読んでくれている皆様)の反応やあるいは反論に関係なく語りを続けてくる。

などなど。詳しくは、『読書力』著)齋藤孝へ。


文章を読んでその人を理解しようとしてみることは、反応を求められないという点で楽な対話の仕方であることはよく理解できているが、ぜひ、今これを読んでいる知人たち、遠慮せずにその都度感想を伝えてほしい(*'▽')

といった話でした。
(01:35)


かけめぐる情報

ここ数日、大きく括ると「パレスチナ問題」と呼ばれるものがさらなる転換期を迎えている。

意識高い系と思われたいわけでもないし、どういう使命感に駆り立てられているのかは言語化が難しいが、暇さえあればこのパレスチナ問題に関する動画をYouTubeで視聴している。

知れば知るほど問題は複雑で、2000年前に遡るほどだ。

自分はおろかだなあと思うこととして、その2000年もの歴史をたった数分で理解できる,むしろ理解し終えてしまいたいと、情報の海を漂っている中で思ってしまったことにある。

容易に情報が得られる時代、最も落ち着く場所に自分は居ながらも、遥か遠い国で泣きじゃくる子どもや、銃を持つ同世代たちの姿を見ることが出来る。

そして、容易に見ることができる一方で、ボタン一つ, スワイプという人指し指一本の動きで、その光景を眼下から抹消する事さえも出来てしまう

さて、これに対してどう取り組んでいくか。この問題について、知らないといけないという義務はどこにもない。

見たこともない景色を見に行く勇気が私の内側にあるのか。

「見たくないものは見なくていい」と割り切ってしまうのは時として危険だ。何に嫌悪を感じ、何に戦慄するのか。その正体の輪郭を掴もうと足掻く姿勢は常に忘れずにいたい。

僕の友達のnote

人は過ちを繰り返しながら歴史を今日まで紡いでいる。そのたびに反省をし、反省をするために歴史があるのかもしれない

基本的に、失敗からあれこれ学んで次に活かしていくのが人間。

けれど、今を生きる最高の友達に当たる過去・歴史, 歴史から学ぶ失敗 というものが無効化される場合がある。

それが、恋愛というものだと僕は思ってしまう。
(02:00)


魔封波に閉じ込めてしまいたいほどの, お札を剥がすな

ここまでは台本通りなんですけどー、ここからはまだあまり決まってないのですねー

ここ最近、人から聞いた恋愛の話を聞いていろいろまた考えてたんです。

最近の話が多いですから、書きすぎると、万が一当事者たちが読んでくれていると、よろしくないですね。俺・私のことやん!なんて思われたらマズイ。

少し昔も思い出しながら思ったことの結論としては、「幸せなやついねぇーーーー」ってことなんですよ笑笑 (もちろんこの私も含めてな。


・かれこれ3年も付き合っていたのに、彼女が社会人になった途端関係性がこじれて、分かれた男

そんな長く付き合ってさ、機会費用も多く支払ったのに、同棲や結婚の話も出たには出ていたと。同い年ではあったけど、とうとう手の届かない世界に行きそうだなーと彼に対しては思っていた。けど、別れちゃうんだね。
なんだか僕にはよくわからないよ。

・友達と付き合うのは違ったなと反省した、同級生女
・いつまでマッチングアプリやってんだよ男
・恋愛100%で人生を生きてきたという後輩ちゃん
・親友に彼女ができて、嬉しさと悔しさの両方が湧いてきた男
・コクられた翌朝に「やっぱ勘違いだった」と言われた謎すぎる話
・その人にパートナーがいることを知っておきながら気持ちを伝えた奴

まあ、他にもいろんな人がいるんですけど、文字数多くなりすぎてきたので詳細はいいや。


斜に構えすぎかもしれないけれど、相変わらず恋愛欲が湧いてはこない。

なんか、どんどんそのスパンが長くなっている気がしてならないのよ。

他のことで人生を満たそうとしているのか、「もう恋なんてしないなんてー」と歌っているのか、自分が求めているハードルが上がっているのか、慎重になっているのか。

口では、昔好きだった人のことは忘れたとか,もういいよとか言いつつも、本当はその気持ちを閉じ込めてるだけで記憶から抹消は出来てないですよね?
みんなもそうでしょ?('ω')

書きすぎると怖いからほどほどにしたいけれど、大1の頃に好きだった人に対しての後悔と反省が、本当にふとした時に、トリガーとなるものも様々だけれども蘇ってくるんです。

今、あの頃よりも成長した俺だったら話し相手にしてくれるのかな、とか、行った場所や、一緒に食べたもの、好きな芸人とか映画とかさ。くだらない妄想を30秒くらいしては、また忘れ

好きだったよなー、かなり

こんなことならさ、恋愛100%で生きていると言っていたあの子は、生きづらくないのだろうか。

何気ない日常に溶け込んできやがるトリガーの数が桁違いなのでは?('ω')

恋愛だけがすべてじゃない、だなんて使い古されてきた言葉は、その古さが示すよう昔からこの身体に染みついているけれど、心の充足さの欠如や季節柄たちが、恋愛欲と書かれたジャーのお札をそーっと剥がそうとしている気もする

別に、自分が何かあったわけではないけれども、彼・彼女らのような恋愛話が生まれづらくなってるこの数か月の俺を、筆者としての私がバカにしているわけです。

みんなで幸せをつかみたいものですな~
ごんすな~
(02:40)


オードリーのラジオをリアタイしながら書いているんですけど、フリートークゾーン何も聞けてないから、明日またタイムフリーで聴こうかな。

ちょっともー、1週間程度じゃあ書く話題が出せません!092は10月末までに書けたら上出来かもです

読んでくれてありがトゥース!


おわり。

秦 基博 - 「鱗(うろこ)」



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