その後の弱聴

 2020年1月6日

 逃亡の旅から二年が過ぎた。
 旅の後、弱聴は仕事を辞め、一年間は日雇いのバイトで食いつないだが金銭的に厳しくなり、東京を出て実家に戻った。

 今はすっかり髪も伸び、元気に働いている。
 職場はなんと、リンゴ園だ。

 自然の中で仕事をしたい。どうせだったら大好きなリンゴを作りたい。ということで農業の道に飛び込んだものの、右も左も分からない三十路の新人だ。ただひたすら先輩の背中を追って汗水流す日々だ。

 それでもリンゴの仕事はすごく楽しい。
 自然の風や音、季節の移り変わりを感じる瞬間が好きだ。集中力が高まると意識が研ぎ澄まされ、辺りは静かになり、心にスーッと青い空が広がったような感覚になる。パソコンに向かって仕事をしていた時は集中力が上がるとカーッと熱くなって体中に熱が籠る感じだった。あの時と今とでは、ため息の温度が全く違う。

 私は出会いにも恵まれた。県内で指折りの技術を持った二枚目のボス。気さくで何でも相談に乗ってくれるベテラン(けど歳は近い)女の先輩。優しさとユーモアに溢れたおばちゃん達。皆に会いたいから仕事に行きたいと思う日も多々。

 外仕事の辛さが無いと言えば嘘になるが、実っているリンゴを見ると「やっぱかわいい♡」って思える。
 方言もすっかり戻り、標準語で話していた自分はどこへやら。
 ときどき、東京の頃の生活が恋しくなって、よく行っていた喫茶店のコーヒーが飲みたくなるけど、次の日には忘れちゃう。
 田舎で暮らしていると町でばったり知り合いに会うことが増えた。東京ではほとんどなかったけど、故郷ではよくあることだ。それが嬉しくもあり、煩わしくもある。

 前に一度、聞かれたことがある。
「あの旅で、あなたは何を得た?」
 的を射た質問だ。きっと皆が聞きたい質問。
「ん~、何でしょうね…」
 少し悩んで、出た答えは…
「体は大事! ってことですかね?」
 なんて、間の抜けた返事をしてしまった。

 今、あの旅を振り返ると自分が何を得たのか分からない。何も手にしてないような気がしてくる。だって、ただ歩いただけだし…。
 威張れるほどの偉業を成し遂げたわけじゃないし、旅の思い出に縛られて生活するなんて、ごめんだ。
 正直、私の頭の中は今の生活でいっぱいで、今の生活にあの旅の思い出は有っても無くてもさして変わりはない、どうでもいい過去だ。

 なんだよ、それ! 薄情なヤツだな!
 逃亡日記なんて書いて投稿までしておいて、最後にそれは無いだろ!

 うん、全くだ。面目ない。

 ただ言えることは、物語はここで終わるが、私の人生はまだまだ続くということ。
 そして私の人生はあの旅で得たことに導かれているということ。今の大事な生活も、これから先の人生も、何かの選択を迫られる度、旅の記憶が甦り、旅で得たものが私を突き動かしてくれる。

 それから、旅で得たものは簡単に一言では言い表せないんだ!ってこと。

                              おわり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?