弱聴の逃亡日記「戻りたくない日常」

 長くて辛い徒歩の旅に早くも後悔し始めた弱聴。 
 では今すぐ旅を辞め、元の生活に戻りたいか?と聞かれたら――素直に頷けない自分がいる。

 24時間働いて、24時間休む。そういう生活をかれこれ4年間続けていた。テレビの編集の仕事だ。
 24時間働き続けるのは辛かったが、次の日が休みになるのが魅力的だった。
 自由な時間がたっぷりあったため、体に負担を感じながらも一日置きに働く生活サイクルに満足していた。

 2017年10月、働き方改革の波が弱聴の職場にも襲ってきた。
 24時間一日置き勤務から、日勤10時間と夜勤10時間の二交代制に改正するというのだ。

 私は二交代制に体がついていくか不安だった。4年間続けてきた一日置きの生活から、毎日出勤する生活への切り替え。それから日勤の週と夜勤の週の生活リズムの切り替え。
 その両方を上手く切り替えられるだろうか? しかも10月1日からスパッと、一気に。

 案の定、上手くいかなかった。
 勤務時間は減ったものの、毎日通うようになったので通勤や家事の時間が二倍になった。
 自由な時間や睡眠時間が一気に減り、趣味や習慣にしていた運動をやる時間もなくなった。

 新しい生活に慣れようと緊張状態も続いた。
 仕事が終わり家に帰ってきてもリラックス出来ず、家の中でも忙しく動き回り、布団に入ってもなかなか寝付けない日々が続いた。

 特に夜勤の週は眠れなかった。
 深夜に不眠不休で10時間働いた後なのに全く眠気を感じない。
 辺りが明るいせいか、布団に入っても心臓がバクバクして目もギラギラする。
 結局3~4時間ほどしか寝むれないまま仕事に行くのが常だった。

 そんな不規則な生活が体調に現れるようになった。
 動悸、息切れ、めまいに頭痛。
 更年期障害か! なんてツッコミを入れたくなる症状ばかり。
 初めは笑い飛ばしていたけれど、仕事に支障が出るようになって笑えなくなった。

 座り仕事なのに心臓がバクバクして息苦しくなったり、めまいで階段が降りられなくなったり。汗をかくほど熱くなってシャツ一枚になったら、今度は寒気がして場違いなほど厚着をしたり。

 このことを上司に相談したが、相談した所でどうしていいか分からなかった。
 休めば治るものなのか? どのくらい休めば治るのか? 復帰したらまた再発するのではないか?
 何よりも休むことで周りに迷惑を掛けるのが嫌だった。
 だから休まず働き続けることにした。

 仕事中に症状が出ても、周りに悟られないように必死に隠した。
 人と食事をとっていて突然強いめまいに襲われ椅子から落ちそうになった時も、必死で堪えながら笑顔で隠した。
 仕事中に地震かと思って周りを見渡しても、皆平然と仕事を続けているので、揺れているのは自分の視界だけだと気付き、そのままグラグラと揺れるパソコンを操作して作業を続けたこともあった。

 あれは夜勤明けの休みの日だったと思う。
 いつものように夜勤を終えて帰宅したが、食欲が無い。
 仕事中に夜食を食べたわけでもないのに、働きどおしでお腹が減っているはずなのに、食べたくない。眠気も無い。

 仕方ないのでテレビを見て、眠気か食欲どちらかが出るのを待っていると、昼頃にようやく食欲が出てきた。
 そうして食べ始めると、今度は食欲が止まらなくなる。
 普段の食事をとってもまだ足りない。
 ラーメンを食べる。まだ足りない。
 菓子パン二つ。まだ足りない。
 お菓子の大袋を丸っと食べきったところで気持ち悪くなり、トイレに駆け込む――吐いてしまった。
 吐いた後、ここ数週間感じたことの無い心地よい睡魔が襲ってきて、久しぶりに深い眠りについた。

 それから毎日吐くようになった。
 なかなか訪れない食欲を待ち続け、ようやく芽生えた食欲めがけ一気に食べ物を胃に詰め込む。そして吐き出す。
 そうするとなぜか安心して眠れるようになる。

 麻薬みたいなものだ。体に悪いと分かっていても、その安心感が得たくて辞められない。
 吐くことが最高の安らぎで欠かせない習慣だった。
 そのうち一度の嘔吐では足りなくなり、吐いた後にまた食べ、二度三度吐いてから眠ることもあった。

 今思い出してもやりきれない。
 あの生活に戻るくらいなら、このバカらしい逃亡の旅を続ける方がマシだ。

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