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【特別公開】河野真太郎×西口想「『ドライブ・マイ・カー』から考えるケアと男性性」(「対談型映画批評 映画のなかに社会を読み解く」より

ゴールデングローブ賞を受賞するなど国内外で高い評価を得ている映画『ドライブ・マイ・カー』。
『POSSE vol.49』に掲載された人気連載「映画のなかに社会を読み解く」の前半では、「ケアと男性性」をテーマにこの映画が描くものに迫りました。今回は連載記事の前半部分を特別公開します。

⚠️ネタバレを含みます⚠️

ケアと男性性――『ドライブ・マイ・カー』

西口:最近、論壇では「ケア」に注目が集まっていますね。

河野:小川公代さんの『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社、2021年)やケア・コレクティヴの『ケア宣言』(大月書店、2021年)など、ケア論を見直す流れが出てきています。前回ファーザー』(2020年)についても述べましたが、人間はどれほど自立しているように見えても、根本的には他者のケアに依存する存在です。そこで、人々を分断・孤立させてきた新自由主義やポストフェミニズム的な風潮を引き戻していき、どのようにケアをし合う社会を構築していくか、ということが問われています。
 今回は「ケア」を軸に映画を観ていくことにしましょうか。

西口:「ケア」と「男性性」という切り口でも2021年に話題になったのは『ドライブ・マイ・カー』ですね。
 村上春樹の小説を原作にし、設定や展開は上手く改変されています。主人公の家福は演出家で、ある演劇祭に招聘されて作品を作っていく。それが話の主線なので、映画内演劇の描写が多いのですが、それにとどまらず、演劇の演劇性についての考察が作品全体を貫いているところに魅力を感じました。映画のなかで演劇が登場するとき、肝心の舞台の描写はすごく嘘っぽく見えることが多いと思うんです。「これが現代演劇ですよ」という記号としての描き方しかできていない。いち演劇ファンとして長年それが不満だったのですが、『ドライブ・マイ・カー』はその不信感を吹き飛ばしてくれました。私たちが優れた演劇作品を観るときに味わっている感覚が映画として表現され、それがさらにストーリーに複雑に組み込まれている。

河野:そうですね。この映画で演劇が効果的なのは、映画内演劇のなかでの演技と映画内現実があやうく入れ替わる点だと思いました。私がそれを感じたのは、演劇祭のオーディションで岡田将生演じる若手俳優の高槻が、ソニア・ユアン演じるジャニスに暴力的に迫るシーンで、これが演技なのか現実なのか、観客をハラハラさせます。ここでは鏡が重要な小道具になっていますが、鏡は家福が妻の不倫の現場を目撃する際にも効果的に使われます。また頻繁に挿入される演劇の台詞も意識的に映画内現実とリンクするように狙っていますね。映画内現実と映画内演技の境目が崩れるモメントが散りばめられていて、どれが演技でどれが現実なのかを意図的にグズグズにしています。

西口:演劇では、俳優本人の身体と役としての身体が舞台の上で常に想像的に重なりつつも避けがたくズレています。その重なりとズレがきわめて映画的に表現されていますよね。

河野:映画内現実と映画内演劇が混ざって、どれが真実でどれがフィクションかわからないような二重性のある演出と、主人公の家福が抱えている二重性が共鳴しているのです。
 家福は、妻の不倫現場を目撃しながらも、それに怒ることをせずずっと自分自身を抑えながら仮面をかぶって生きているという背景を持っています。そして物語の最後では、自分の欲望に素直になり、妻の不倫に対して怒り、正しく傷つくことができなかった自分と和解する。

西口:その葛藤の昇華が物語の落としどころになっています。北海道で、運転手のみさきの生家が土砂と雪に埋もれている様を二人で見る場面で、「僕は、正しく傷つくべきだった」という言葉に至る。ちなみに、原作で家福がみさきに最後に言う言葉は「そして僕らはみんな演技をする」です。物語のたどり着く先は、同じようでも、正反対のようでもあります。

河野:簡単に言えば、それは「本心」と「建前」の二重性ですね。家福はその二重性の乖離に苦しんでいる。映画内現実と映画内演技の二重性とその区分の崩壊は、まさに家福のこの二重性の矛盾を演出の上で反復し検討するものになっています。
 そしてその結論の場面で家福は、みさきの母親の二重人格についての回想を聞き、傷ついた自分も強がっていた自分も、すべてが本当の自分であるというような「真実」に気づき彼女を抱擁します。妻に不倫をされて本心では傷ついていたけれども、表面上は夫婦生活を続けていた。これは矛盾しているのだけれど、その矛盾も自分の一部として認めましょうと。
 これが一体 二重構造の否定なのか、肯定なのか──そこがこの映画の読解の分かれ道ではないでしょうか。否定である場合は、それは建前はかなぐり捨てて「本心」いや「本音」で生きよう、差別をしても構わないからという、ポストトゥルース時代の有毒的な男性性に結びつきます。そうではなく、自分の「本心」を見つめ直し、それと「建前」との関係を練り直していくという方向性もあり得るでしょう。
 私は前者のような可能性を警戒しつつも、後者の読みに賭けたいと感じています。

西口:それだけ「正しく傷つくべきだった」という台詞を観客は本気で聞いてしまうし、同時に分かりやすすぎて危うさも感じるということかもしれません。家福はみさきとの抱擁を経て、拒否してきた「ワーニャ伯父さん」のワーニャ役を再び演じられるようになります。あまりに自分に近づき、演劇の二重性を保てず一つに呑み込まれそうだったために演じられなくなっていたキャラクターです。二重の自分(二重のみさき)がいて互いに矛盾していてもいいという肯定として、僕もこの台詞を聞きました。
「僕ら」が二重・三重であることをどのように考えるかが、この作品を映画化するにあたっての一番大事なところだったのだと思います。

ホモソーシャリティを崩す多声性

河野:ケアの文脈に戻しますと、旧来の支配的な男性性は、他者をケアすることもなければ自分をもケアしないという特徴があります。そのなかで家福は、妻の不倫によって男性性のつまずきを抱えて、セルフネグレクト状態になってしまっていたのです。それを最終的に見つめなおして、「僕は傷ついていたのだ、怒って良かったのだ」ということに気づく。この映画は、家福が他者に対しても、また自分にすらケアをしなかったという自らの男性性を反省して、新たな主体性――私は「男性学的な主体性」と呼んでいますが――を作り上げる物語だと思うのです。
 しかし、それは、50がらみのおじさんになってからやることではなく、青年時代に気づけよという気もしますが……。

西口:まあそうですが、それは身も蓋もない感想です(笑)。

河野:そのなかで重視したいのは、多声性です。原作小説では語り手の視点に物語が支配されていますが、映画ではそんなことはなくて、視点自体がバラバラになっていく展開になっています。特に印象的なのは、家福とみさきと高槻の三人が車に乗っているシーンで、原作にもある長台詞を高槻が言う場面です。「20年間、家福さんは音さんと一緒にいて幸せだったじゃないか。家福さんはそれに感謝しないといけない」というようなことを言います。

西口:原作では、家福と高槻が2人でバーで話す場面だったと思います。

河野:そうです。映画では車の中で、運転手のみさきも同席して聞いているように変更されています。この差異は決定的ですね。つまり原作はホモソーシャルなのです。家福と高槻という二人の男の関係のための貨幣のように音さんという女性の交換がおこなわれる、ミソジニー的な構造のなかであの台詞は語られている。しかし映画では、ホモソーシャリティを成立させるような台詞をみさきも聞いていて、そのことを二人も意識している。それによってホモソーシャル的でモノロジカルな構造が崩れている。そのような多声性を評価するべきで、家福の中年男性性の物語を多声性が崩しているのではないかと感じます。

西口:たしかに。原作では、高槻の長台詞のあとに語り手(家福)が「それが演技でないことは明らかだった」と述べ、ホモソで完結している感じでしたが、映画では、みさきが家福に「あの人は嘘をついていない」と伝えることによってホモソの完成をうまく回避しているように思いました。

河野:とはいえ、みさきの主体性の描き方は不十分ではないかという感覚が少しあります。ラストではハッピーエンドが用意されていて、実は彼女が主人公だったというような格好で終わってはいるけれど、中年が悟りに至るための媒介にされてしまっている部分があるのではないかと。

西口:「正しく傷つくべきだった」という結論にいくためにはホモソの物語だと難しいから、みさきの物語が前に出てきたのではないかと思います。原作の制約を克服するために。ずっとホモソの見守り役だったみさきが、補助線から主線へと躍り出るラストはやはり爽快でした。みさきのそうした変化をもたらした一人が、家福の舞台に出る韓国語手話を使うユナだったのも印象に残りました。

高槻に背負わされた「暴力性」のゆくえ

河野:一方、高槻のほうに注目してみると、彼は徹底的にダメな男性性の権化ですよね。

西口:原作よりもさらに暴力的なキャラクターになっていますね。

河野:それとは対照的に家福は基本的に温厚な性格として描かれますが、ひょっとすると、本来は家福が持っているべき暴力性が高槻に外部化されているのではないかと感じました。

西口:もし家福が高槻の持つ暴力性を兼ね備えていれば、典型的なハラスメント演出家ですね。そうすると家福に対する観客の目線もそうとう変わってくると思います。

河野:さらに物語が解決しなければならない要素も変わってきます。だから高槻というキャラクターに暴力性を移して、逮捕というかたちで処理した。男性性が持つ暴力性の問題は物語のなかでは真の意味では解決されずじまいなのですよね。
 この点は男性性の問題を考えるうえでは避けては通れないと思います。なぜなら、現実の演劇界は、演出家や監督によるハラスメント問題が頻発している世界だからです。その問題はたいてい男性的な暴力と結びついています。その問題を高槻の逮捕というかたちで処理し、未解決のままにしてしまっている可能性は高いと思います。

西口:この作品は、元劇団員からパワハラや退職強要を告発されて係争中の劇団「地点」が協力クレジットされている、ということも無視できず、それを指摘する声もあがりました。そうした制作の上での現実的な文脈と、原作で家福が持っていた被害者意識と混然一体となった暴力性を高槻に転嫁させているストーリーは、完全に無関係であるとは言いきれないのかもしれません。私は、映画のなかで演劇を問うことの凄みという点で『ドライブ・マイ・カー』を高く評価していますが、私たちの社会と演劇の関係が複雑であるがゆえに、この作品を作品だけで評価することもまた難しいと感じます。

河野:「ハラスメント」をテーマとした対談でも話しましたが(本連載第4回「ハラスメントと映画」本誌46号掲載)、『セッション』のようなハラスメント構造をどのように乗り越えるかは、単なるPC的な問題にとどまらず、我々が今後も作品を楽しむためにも重要なポイントであると思います。

この続きは雑誌『POSSE vol.49』でお楽しみいただけます!
対談の後半では、「ケアと男性性」を軸にイクメン映画の考察していきます。『クレイマー、クレイマー』『マリッジ・ストーリー』『アイ・アム・サム』を通じて、ケアをする/される男性がどのように表象されてきたのか、そしてそれと密接に関わる男性の暴力性の問題について深掘りします。

河野真太郎
専修大学教授
1974年山口県生まれ。専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門は英文学、イギリスの文化と社会。一橋大学准教授などを経て現職。著書に『戦う姫、働く少女』(堀之内出版、2017年)など。

西口 想
文筆家・労働団体職員
1984年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、テレビ番組制作会社勤務を経て、現在は労働団体職員。著書に『なぜオフィスでラブなのか』(堀之内出版、2019年)。

編集注:ネット公開にあたり、本文の一部を変更しました。

対談型映画批評 映画のなかに社会を読み解く
バックナンバー

第1回「天気の子」

第2回「家族を想うとき」

第3回「男性性と階級」

『ジョーカー』『バーニング』『パラサイト』

第4回「ハラスメントと映画」

『スタンドアップ』『スキャンダル』『セッション』『ミッドナイトスワン』

第5回「料理と映画」

『エイブのキッチンストーリー』『シェフ』『二ツ星の料理人』『幸せのレシピ』『ジュリー&ジュリア』

第6回「住まいとホームレスネス」

『サンドラの小さな家』『キャシー・カム・ホーム』『ノマドランド』『ファーザー』

第7回「ケアと男性性」

『ドライブ・マイ・カー』『クレイマー、クレイマー』『アイ・アム・サム』『マリッジ・ストーリー』


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