見出し画像

【連載】ちいたら散歩〜コロナ自粛下のジモトを歩く〜(第6回)

⑩ジモトに生きる「敗け派」先生(後編)
 前回は、旧幕臣の子で、沼津兵学校でも学んだ「敗け派」先生、三宅松露(直行)の生涯をたどった。今回は、同じくジモトの学校で、地域の子どもや父兄たちと交流しながら、その地で骨を埋めた糟谷思聡(かすやしそう)の碑について記していく。

 「敗け派」先生とジモトの子どもや父兄との交流が形になった例としてもっとも有名なのが、千葉卓三郎と深沢親子の賜物「五日市憲法」である。それに限らず、明治初期の学校や私塾では、「外」から来た先生と地元の子どもたちとの交流が密に行われていた。それを陰に陽に支えていたのは、井田文三や鈴木久弥のような豪農層である。
 今回取り上げる糟谷思聡が教鞭をとっていた「初山学舎」(のちの菅生学校)も、井田や鈴木の「同志」であった山田や城所が「世話役」となり、寄付金も捻出していた。
 
 それでは、「糟谷思聡之碑」から、その生涯をみていこう。
 1851年、会津藩士の子に生まれた「会津人」糟谷はまもなく「飯田藩士加藤某家」に養子に出されたようである。飯田藩士の家が選ばれたのは、おそらく偶然ではない。会津藩と飯田藩はともに幕末の京都にて治安維持の任を与えられていた(会津藩主・松平容保は京都守護職、飯田藩主・堀親義は京都見廻役をつとめた。その配下で実働していたのが新選組である)。

画像1

 
 生家、養子先ともに「敗け派」となった糟谷が、いかなる気持ちで新しい時代を迎えたのかは分からないが、彼らの多くがそうであったように「学問の力」で人生を切り開こうとし、新しいジモトを求め放浪していたことは間違いない。 
 そして、近世から近代へと大きく時代が移行していくなかで、そのような若者を「敗け派」先生として受け入れようとする人びとが、長尾や初山などの地域にいた。ジモトの彼らも、新しい人との出会いや結び付きを求めていたのである。

 歴史学者の松沢裕作は、明治10年代に盛んとなった自由民権運動を近世社会から近代社会への移行期に生まれた運動と捉え、「一言でいえば、自由民権運動とは、近世身分制社会にかわる新しい社会を、自分たちの手でつくり出そうとする運動」(松沢裕作『自由民権運動 <デモクラシー>の夢と挫折』、p.ⅲ)であると論じた。そして、近世社会が解体されていく明治初期から自由民権運動の時代を「ポスト身分制社会」と定義したのである。
 この理解に従えば、ポスト身分制社会は、まずジモトの学校で「敗け派」先生と豪農層の師弟たちによってつくり出されたといえる。学校は、学びの場であると共に新しい社会へと向けた関係性を試行/思考する場であった。
 それゆえ、「敗け派」先生との地域をあげた交流は、いまでは想像がつかなほど濃密なものであったことは、碑や台座にびっしり記された「門人」たちの名前がなによりも物語る。

 話を糟谷に戻せば、明治6(1873)年、「初山学舎」の創立とともに招かれた「敗け派」先生は、その後、明治9年4月に北多摩郡門前学校へと赴任するも、同地にてその11月に没した。享年は25歳。早すぎる死を悼んだ、初山学舎での教え子と父兄たちが明治16年に建てた碑が本遠寺に残されている。碑文は同じ「敗け派」で、ほぼ同い年であった後任の三宅直行(松露)が書き上げ、筆は鈴木久弥がとった。

画像2


 糟谷も、三宅も、前回触れた彰義隊の生き残り木村も、「ポスト身分制社会」を自らの学問と地域の人との交流のなかで生き延びた。「敗け派」である彼らは、郷土に戻ることも難しかったのではないか。戻るべき藩も、ポジションも失ってしまった彼らは、しかし、新たなジモトで本人たちにも思いも寄らぬ生涯を全うした。その人生は、ジモトの人からすれば過酷なものに映っていたのかも知れない。だからこそ、彼らを慕った人びとは「碑」を建て、彼の墓としたのではないか。

 「敗け派」といっても、政治家や官僚、ジャーナリストや実業家として成功した者も多くいる。自由民権運動のときには、まだ先のことは誰にも見えていなかった。明治17(1884)年1月6日、井田文三が会主となった「学術演説会」が等覚院で開かれた。参加者は70名余り。井田につづいて演説をおこなったのが、のちに衆議院議員に14回連続当選し、田中正造の盟友となった島田三郎(当時31才)。
 演説のタイトルは「学問ト実業ノ関係ヲ論ス」。島田も、三宅松露と同じく沼津兵学校の出身者である。そして、演説会は、つぎの論者が話し始めたとき「二名の隣席警官より時刻切れを理由として、降壇を命じられ…このため、熱気と興奮にみちた等覚院の境内は、一時騒然たる空気に包まれた」(小林孝雄『近代川崎の民衆』、p.196-197)という。この「騒動」のなかに、同窓生・三宅信行の姿があったかどうかは今後の課題である。

 「歴史」に名を残さずとも、ジモトに生きた「敗け派」先生がいた。その思い出と交流を祀る「碑」は、寺の境内の片隅で、かつての生徒の名前と共に「静粛の時」を過ごしている。(写真は、初山・本遠寺にある糟谷思聡の碑)

画像3

※このNoteに「いいね」が7つ付かないと連載打ち切りのようです。何卒宜しくお願い致します。約1週間(25日)までの連載を予定しています。

【執筆者プロフィール】
高原太一(たかはら・たいち)
東京外国語大学博士後期課程在籍。専門は砂川闘争を中心とする日本近現代史。基地やダム、高度経済成長期の開発によって「先祖伝来の土地」や生業を失った人びとの歴史を掘っている。「自粛」期間にジモトを歩いた記録を「ぽすけん」Noteで連載中(「ちいたら散歩 コロナ自粛下のジモトを歩く」)。論文に「『砂川問題』の同時代史―歴史教育家、高橋磌一の経験を中心に」(東京外国語大学海外事情研究所, Quadrante, No.21, 2019)。

記事自体は無料公開ですが、もしサポートがあった場合は今後の研究活動にぜひ役立てさせていただきます。