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自分の研究視点から子育てをみてみようとしてみたら、前置きだけで長文になってしまったので、前置き編

先日友だちと話していて、「写本」という言葉を知る
その友達は自分がいいなと思う思考回路であったり、書き方であったりを
表現できている本を書き写すことで自分の力として吸収していた
あぁ、そういえば受験の時によく新聞の社説だとかを写せという話あったな

話は変わって、noteを通して専門的な話を書いている方が面白かったり
子どもとの関わり方を知ったりして
「あ、自分も研究内容と照らし合わせたら面白いかも」と思っていた


そんなこんなで、修士論文をもう一度写してみることにした
7年前の自分が書き上げたもの
コピペではなく、一字ずつ打つとなんて意味のわからない文章なんだろう
これ、そもそも研究論文とは言えないなみたいな
恥の確認のような作業である
でも、おかげで離職、出産、育児などの理由で活字離れし、
ゆるやかになっていた自分の脳みそに少し刺激が起きている

私は保育の中で、
保育者論だとか、保育者養成みたいなものに一番興味があって
どうすれば保育士資格や幼稚園教諭の免許を取得できる学校の授業が
学生も皆有意義に感じ、保育やっぱ面白い!目指してよかった!となるのか考えていた
ぶっちゃけ自分が受けた授業から、実践に出るのが不安だったのが発端

というのも
保育の仕事ってすごいんだよ!専門性だっているし、脳みそフル回転だし
昔は誰もが家で見ていたじゃん、相手すればいいじゃんだけではない
プロならではの部分が必ずあって、そこがまためちゃくちゃ面白いんだよ
っていうのを社会が知ればもっともっと子どもが幸せになるんじゃないか
でも、結局そうなるためには一人一人の保育者がまずプロ度みたいなんをもっと上げなきゃいけないんじゃないか
そうなるためには、養成校でもそのことしっかりつたえて
実習に臨んだり、就職して子どもたちと向き合っていけるようにしないと

じゃ、何がどのへんプロって言われることなんか
保育者の頭の中で何がおこっているのかを分かりやすくできたら
保育者目指す学生たちももっともっと効率的に理解できたり
自分も含めて保育の面白さに気づけるのではないかな
学生のやる気とか、真面目さだけが問われたりするけど
そもそもの保育の面白さをもっともっと伝えたいとも思っていた
もっと実践に即した内容で、でも現行の必須科目の中で…

当時修士課程にいた時は、まだ学生身分で実習しか経験しておらず
理想論にかなり酔っていたと思う。
おかげで客観的にデータという形で保育を見ていたかも
実際に、2つの園で働き現実を知ったり
短大で学生に教える側にたち
今は子育て経験中という立場を知る
考えたらこれらの経験経てからこの論文と向き合うの初
多くの保育者の方々に協力を得て、研究結果を伝えたけど
「まぁ、若い学生さんが、高尚な理想をいうてウフフ」ってなってたかもな
複雑怪奇で多岐にわたっていて、学ぼうとするほど自分が無知で
無謀なんじゃないかということで、いったん体力と気力を奪われる

でも、noteはべつに院でもないし、締め切りがあるわけでもないし
いったん自由に書いてみようと
いつしかこれらを整理しなおして見直し研究にできたらなおよし
できなくてもまぁよし
というあいまいなお試し段階です

逆になんで、これまでこの視点にならなかったのか



写真が、私の修士論文のタイトルでして
ものすごい簡単にいうと、保育観の話になる
「保育の転換」と書いているのは、この保育観が日々海の流れのように変わっていったり、ある出来事によって驚き!みたいな感じで変わったりすることがあって
先生たちは、その「保育の転換」の経験を通して
それまでの自分の保育に対する考えからさらに成長して、保育の面白さに気づいているんじゃないのか、という仮定でお話がすすんでいくのです

と、いうのも
自分もそうだったんだけど、保育者を目指す学生の多くは
何となくイメージしていたいい先生というのが心にあって
例えば「誰にでも優しくて笑顔いっぱいの先生」みたいな、
でも、実際に保育をしてみると優しいだけでは乗り越えられない
みたいな状況がたくさんおこってくる
教育の流れとして集団という考え方が見直されている現代だけど
とりあえず、その流れはいったんおいておき
クラス担任していたら、1対1の子育てや、近所の子どもと遊ぶの違いで
この子をどうするか、と、この集団をどうするか
という考えがミックスされていて
新人が、先輩のクラスのように、まとまったクラスをつくろうと思うと
「あぁ、時には厳しく叱ることも必要だ」とか、
「行事を目指して、今の時期には何するべきで、遊びの時にはこんな姿見てネタを探して、こういう行動につながったらいいなと誘導してみて」とか、
考えが変わってきたりする
そして、数年働き保育に慣れてきた頃子どもの姿をみていくと
「あ、集団として形づくられていく過程とか、1年の流れはなんとなくわかってきたから、子ども姿あらためてみてみよう」とたちかえってみたり
自分が先輩になり、後輩の新人保育を見ることで
「あ、私もあぁいう保育してたかも、自分の保育見直そう」となってみたり
そういう経験を経ていくことで、最初の頃思っていたのよりずっと深い
保育への理解があると考えたのです
でも、これは自分の何となくのイメージとか一般論であって
データとして先生たちに実際に聞いてみたいなと考えた

保育観って何なのさ

上に書いている通り、簡単にいうと保育に対する考えなのだけど
もう少し書いてみる

保育者(先生)たちが日々保育をする中で「〇〇」という保育をしよう
とする
その〇〇というのが
具体的な「おにごっこをしよう」という遊びだったり生活だったりという保育内容と呼ばれる部分と
またまた具体的な「まず園庭に出て、子ども達全員に話をして、おにごっこのルールを確認して、次にどうやって鬼を決めよう、今日は最初は△ちゃんにして…」だとか、「◇ちゃんと☆ちゃんがもめたら、こういう風に仲裁に入って、怪我の子どもが出たらこうしてあぁして」というような保育方法と呼ばれる部分があって
その遊びや生活を一つであったり、一定の時間の内容をまとめた
「部分案」「指導案」を書く
それが一日を通してとなると
「日案」となり
「月案」(月ごと)
「年間指導計画」「年間指導案」(年ごと)
「保育課程」「教育課程」(園生活とおして)

保育観というのは、まさしく保育に対する考え方で
先の保育内容や保育方法の選択だったりに大きく影響をする
これらのカリキュラムに分かりやすく明記されてはいないけど
よく読んだら染み出しているもの
保育観の違いによって、「鬼ごっこ」自体を先生がどう捉えているかが違うし、鬼ごっこを通して育ていたいもの(「ねらい」)も違うし、
となると、どういう姿をみて褒めるのか、声をかけるのか、
◇ちゃんと☆ちゃんがもめた時の対処の仕方も違うし
保育を終えて振り返って、明日の保育につなげる時の反省内容も変わる
実は何もかもに影響してくる

子ども観だと、
「子どもってこういう存在だよね」だとか
〇〇する姿をみて「あ~子どもらしいな(らしくないな)」という思いになるのは自分の中の子ども観が何となくあるから

教育観だとか、子育て観だとか、仕事観だとか
日々言葉でいちいち説明しないけど、
その人の思考の根幹であり、日々の姿勢・行動の基みたいな
よく考えたら私たちが生きていく上で、言葉におこせば沢山あるんだな



2つの軸で大きく分けてみた(自分なりに)

当時の私の研究では、この保育観を2つの軸を使い
大きく4つに分けてみた

1つの軸が  過程重視ー成果重視
もう1つが  児童中心主義ー系統主義

この2つが軸として大きな代表例なのかと言われると
はい、そうです!!!と強く言えるほど勉強していなくて
あぁ、なんだか修士論文書き直すところから新しく研究始められるかもしれないと寝ぼけた頭で考えている

どちらも言葉としては教育畑でない人もイメージできるのではと思う
ただ言葉遊びというか、細かくみると
児童中心主義ー教師主義とここではしていなくて、
系統主義とは?という説明だったり
それぞれの4つのタイプはどんな保育観?という説明を少ししておかないと
これから子育ての話を切り込む上で自分もまた混乱してくると思う


ですが、今回はここまで
4つの保育概念についてはまた今後






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