color of love
彼女と俺は、同じバス停を利用していた。
7時32分発のバスは比較的空いていて、だからかバス停に並ぶ人たちは顔見知りとなり、出会うと軽く挨拶をするようになっていた。
だけど、どこに住んでいるのか、どこに向かうのか、そんなことも分からないまま、目が合えば合言葉のように「おはようございます」という間柄。
言ってみれば、それだけの間柄。
ある日、いつものように俺はバス停でバスを待つ。俺の後ろに彼女もいた。
その日は朝から暑くて、彼女は汗を拭きたかったのだろう、バッグからハンカチを出そうとしたら、一緒に一枚の紙も飛び出して風に煽られて舞った。
「あっ」
俺は咄嗟に舞ったその紙を追いかけて拾い、彼女に渡そうとして、チラリと見えた文字に驚いた。
今日の夜の舞台のチケットだった。
「あ、この舞台。俺も今日観に行くんです」
それから俺たちはお互いに舞台鑑賞が趣味だと言うことがわかり、言葉を交わすようになった。
だからと言って連絡先を交換したり、同じ舞台を一緒に観に行ったりとか、そんなことは全くなく、7:32までの時間、少しだけ共通の話題を共にする間柄に発展しただけだった。
そんな俺たちの関係が少しだけ変わったのは、夏と秋の境目の、薄い上着が欲しくなる、そんな季節だった。
舞台チケットが2枚あるんですけど、一緒に行きませんか?
そんな朝に、彼女はそう俺を誘った。
どうやら一緒に行くはずだった友達が都合が悪くなっていけなくなってしまったのだと。
その舞台は、俺自身行きたくてもなかなかチケットが取れなかった舞台で、まさに渡りに船だったので、ありがたくお誘いを受ける事にした。
⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘
「ああ、面白かった…」
「良かった。誘った甲斐がありました」
舞台が終わって、内容の面白さに興奮しつつ、会場を出ながら俺たちは並んで歩いていた。
「えっと…今日電車で来たの?」
「はい」
「ってことは、きっと最寄駅まで一緒だよね?」
「ですね」
当日会場で待ち合わせたので、帰り道になって帰りの目的地がほぼ同じことに、俺はやっと気づいた。
当たり前だ、最寄りのバス停が同じなのだから。
じゃあ、と2人でそのまま帰り道を一緒にすることにした。
彼女と話しながら歩いている事に、俺は少しくすぐったくなった。
だって、今までは7:32までの知り合いで、挨拶を交わす程度だったのに、いきなり沢山の話をしていたからだ。
突然俺の中に取り込まれる彼女の情報に戸惑いつつ、でも、もっとちゃんと話をしたくなる自分もいた。
「あのさ、今日の舞台誘ってもらったお礼にご飯奢るよ。なんか食べていかない?あ、もちろん嫌じゃなければだけど…」
「えー悪いですよ。私だってチケット無駄にならなくて済んだんだから、反対に私が奢らなくちゃいけない立場ですよ」
「じゃあ、お互いに奢るって事で」
「…それ、ただのご飯じゃないですか?」
彼女はケタケタ笑いながら、特に用事もないしお腹も空いてるから、じゃあそうしましょうと「あそこが良い」とファミレスを指差し、どんどん歩いて、俺を先導してお店に入った。
「もっとちゃんとしたお店でも良かったのに」
俺は座りながら、彼女にそう言った。
何となくだが、特別な時間だったので、少し特別なものを食べても良いなと思っていたのだ。
「良いの、いいの」
そんな俺の言葉を意に介さず、彼女はメニューを開いて「これ食べたい」と心はすでに食べることに集中していた。
お互い頼んだ品物が届き、頂きますをして食べ始めると「ふふふ」と彼女が突然笑い出した。
「え?なんですか??」
俺も何故だか釣られて笑う。
「だって、不思議じゃないですか?ファミレスの味なんて、どこでもそれほど変わらないはずなのに、今日のご飯はとってもおいしく感じる。
それって今日の時間が、とっても楽しいから、ご飯も美味しく感じるんだなあ、不思議だなあって思ったら、面白くなっちゃって」
そう言って彼女はにっこり笑った。
「確かに、今日のファミレスのご飯は、美味しいかも」
「ね。特別なものを特別な場所で食べなくても、楽しいだけで、ご飯が美味しくなるってすごいですよね」
「本当だ!そういうことか!すごいね!」
俺は彼女の考え方に感銘を受けた。
特別においしい物を食べなくても、今日の楽しさが、調味料になるなんて、考えた事もなかったからだ。
そう思った途端、彼女の周りが色鮮やかに輝いた。
それからは、フワフワと落ち着かない気分のまま、話をしながらご飯を食べた。
居心地が悪いわけではない。むしろ、楽しい。楽しいけど、落ち着かない。
帰りの電車でも隣に座る彼女の肘が、上着越しに俺の体に少し触れただけでも、火傷しそうに熱い。そして、いつまで経っても冷める事はない。
おかしい、おかしい、おかしい。
それからも、フワフワしたまま、俺たちは別れて家に着いた。
彼女からLINEが届く。
『今日は本当にありがとう。楽しかったー。また、バス停でね』
それだけの社交辞令のような内容。
それでも俺は、その文章を抱きしめるだけで、いつもと変わらない部屋の風景が、色とりどりに見え、先ほど上着越しに触れた場所が、また熱くなるのを感じた。
彼女に恋に落ちた事を、俺は自覚した。
その日以来、7:32のバスは、魔法のバスになっていた。
それは、バスに乗った後もお互い近くに座り、目的地まで一緒に過ごせるチケットがもらえるからだ。
彼女が話せばその言葉は色を生み出し、俺の周りが色とりどりに飾られる。
風に揺れる髪の毛からは、音符が漏れて、歌が流れる。
まるでキャンパスの上を、彼女がダンスを踊るようだった。
チケットを持っている間は、彼女は俺の前で楽しくダンスを踊る。
俺はそれを嬉しそうに眺める。
そう、ダンスを踊る彼女の手を、俺が取ることはできない。
だって、色とりどりに輝く彼女と違って、俺は何もない。
色もない。ダンスもできない。
俺は、彼女と一緒に過ごせるチケットを持っているだけの、ただの人だ。
ただただ、彼女をキャンバスに描き、楽しく踊るのを舞台の客席から楽しむだけの傍観者。
それだけだ。
だから、俺と彼女の距離は何一つ縮まらない。
自分の色とりどりに輝くために、彼女に相応しい人間になりたいと思うが、こんな取り柄のない自分がどう変身すれば良いのか?
考えれば考えるほど分からなくなり、俺は1人、真っ白なステージの上で立ち竦むのを感じるようになっていた。
「ふふふ、やっぱり良いね」
それは春を感じるようになった、ある朝の出来事だった。
俺はバスの外から見える春の訪れを知らせる花を見て「花が春を連れてきたね」と何気に彼女に話したのだ。
「そうだねー。春は良いよねえ」
「違うちがう。もちろん春もいいけどさ」
「え?」
「そうやって春の訪れを風景からしっかり感じ取れるって素敵だなって思ったの」
思わぬ彼女の言葉に、俺は心臓が高鳴った。
「そうなのかな?だって、毎日同じ風景見てるから、違いがわかるじゃない?」
「そうかも知れないけど、毎日見てるからこそ、気づかない人もたくさんだと思うよ。だから、素敵だよ。その言葉で、私も春の訪れを感じることができるんだもん」
そう言って、彼女は俺に微笑んだ。
その瞬間、俺は心臓の高鳴りと共に、自分が少しだけ色づくのが分かった。
そうか。
彼女に相応しい人間になろうと思ってどうしようもなくて、ふがいない自分に嫌気がさしていたけど、そうじゃない。
こうやって彼女を笑顔にすることが出来るじゃないか。
ほんの些細なことだけど、彼女を笑顔にすると、俺も笑う。
二人で笑えば、それだけで幸せな時間が流れる。
自分の身体を見ると、俺も色とりどりに色づいていた。
気づいてなかっただけなんだ。見ていなかっただけなんだ。
もうずっと、俺は彼女と話をしているだけで、こんなに色とりどりに色づいていたんだ。
俺はカラフルに色づいた腕を、思い切って舞台の上に立つ彼女に向けて伸ばす。
「あのさ、今日仕事終わったら時間あるかな?ご飯食べに行かない?」
彼女は少し驚いた顔をして、次の瞬間微笑む。
「いいね。今日もファミレス?」
俺は彼女と同じ舞台に立ち、深呼吸をする。
「それもいいね。二人ならどこで何を食べても、絶対美味しく食べられるから」
色々な色をここから生み出せることを感じながら、二人で手を取り合って踊り出す。
二人の踊る足跡が五線譜となり、軽快なメロディーが流れだしていた。
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