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保護者向け交流会をオンラインで実施する意味


 休校からここまで2か月。お子さんを持つご家庭では、休校そのものに始まって「え?それってどういうこと?」と疑問を通り越して驚きを感じる場面に何度も遭遇されてきたのではないでしょうか。

 当初、「特にICT学習は考えていません」とおっしゃっていた地域も今は導入されつつあり、地域差や方法・スピードの違いはあっても、オンライン化の流れがせせらぎから激流に変わりつつあるのを感じています。

 ただオンライン化をプレッシャーに感じる先生方や、そこに面白みを見いだせない子ども達が既に出て来ていたり、機器がなくてオンラインでは取り組みにくい子ども達も出て来ています。

 コロナのことはもうしばらく続くことが予測され、教育はいやおうなしに大幅な多様化を迫られていくのでしょう。

 実はこれは今に始まった課題ではなく、不登校の家庭や学びにくさを持つ子ども達は、教育の選択肢が実質ないことにより、家庭で工夫しながら対応してきました。

 その課題が共通のものとなり、更に新たな課題が露呈するなかで私たちが出来ることは何でしょうか。

 私は、オンラインは「対話的関わりの経験」を積む場として適していると思っていて、オンラインの利便性や垣根のなさを活かした新たな関わり方が生まれることを今、期待しています。

 実際、この流れの中で、「保護者交流会」をオンラインで実施する学校も出てきているようですね。

 不要不急って何?学び止まってどうなるの?というかつてない状況に置かれたことにより、教育に対して批判的な感覚を持つことも増えるでしょう。

 それをそのままにするのではなく、対話的な場に繋ぐことが、建設的な意見交換、合理的で子どもに有益な教育の実現を助けると思っています。

過去の保護者交流会の経験からわかったこと

 私事で僭越ですが、自分は過去3年間、zoomを使って保護者の交流会を実施してきました。その場は正に対話的でピアサポートでもなければ、支援でもない、これから必要と言われている相互支援、エンパワメントの場となりました。

 対象者が「不登校のお子さんを持つ保護者の方」であり、自分もその当時者経験があることがより丁寧な場づくりになったとは思うのですが、オンラインであったという要素もエンパワメントの醸成を助けていたと思っています。

 以下はそれらを整理してみたものです。少し多めですが興味のある方は目を通してみてください。

・交流の会場がオンラインという過去にないものであったために、進行方法や関わり方を選ぶ上で前例や大前提を気にする必要がなかった
・利便性の高さゆえに、時間的・地理的要因で交流の場に参加できなかった方々が仲間を持て、新たな関わりが生まれた
・地理的なバウンダリーがないために、多様な声が集まりやすく、自分個人の悩みが全国的に共通の悩みと認識することで捉え方の変化が起きやすかった
・時間的な自由度も高いために、継続して参加可能となり親交を深めやすかった
・SNSを並走させていたため、参加者との関係性を日常的に持続しやすかった
・そもそも情報を得にくい少数派に属する方々が対象であったため、リアルタイムで顔をみて話せる場の価値を高く感じられた

 現状にそのまま重ねることはできませんが、「困っている」「つながりが持ちにくい」という背景は類似しています。

 また、オンラインという場のもたらす要素に加えて、そこでの人的な関わりも化学反応を引き起こしていた可能性もありそうです。

 先日、ある教授が私のことを「天然」とおっしゃったのですが(良い意味だったと解釈(笑))、その名の通り、ファシリ上での工夫や配慮を無意識を行ってきました。 

 ゆえに自分を客観視することは難しいのですが、この機会にファシリテーションとしてしてきた配慮や工夫を分析してみたいと思っています。

 ざっと挙げてみるた関係のありそうな要素は以下の通り。

・HSP(High Sensitive Person)の性質(ゆえの多様な情報キャッチ)・年齢的な(アラフィフなもので…)人生経験値(ゆえの想起できる選択肢の量)・同属性による共有言語認識と共感力・SNSの慣れ・操作の慣れ・異文化経験

 これ等の分析が何の役に立つのかはわかりませんが、自分の記録もかねてnoteに書き記していきたいと思っています。(今日書いていることに直接関わりのない内容になるかもしれませんが)

 今後、オンラインの場を使って、役割や立場を超えた交流を行ってみたい方、新たな関係性構築の必要性を感じてらっしゃる方などにお読みいただき、感想をお寄せいただけたら嬉しく思います。

心と身体のソーシャルディスタンス

 雑多なおしゃべりも大切ですが、日本語は含みが多く(言語要素だけではもちろんないですが、あえて)上澄みだけ、美辞麗句でその場を濁さずやり過ごすこともできてしまいます。

 見た目は「キチン」としていて秩序が整っているし、やり取りできる相手は大勢いる。いくらでも近づいてよい、関わって良い、ぶつかり合って良いはずで常に三密状態OKなのに、周りの目を気にしたり、暗記を強いられる教育で、周囲や教育から心がどんどん離れて行く。

 物理的な距離は近いけど
 心のソーシャルディスタンス
 言われなくても取ってるわ…。

 ここにとても違和感を感じています。

 場を変えることで文化が変わる。

 今は強制的に停止・休止して、場が変わっています。

 心と身体のソーシャルディスタンスの矛盾に気付く、とても良い機会だと思っています。

格差是正のためにも

 今の社会は、「情報化社会」でも、「情報社会」でもなく、「超スマート社会」と言われており、どんどん格差が広がっています。

 SNSをこまめに使われる方は、膨大な情報にその流れの強さを感じて追随し、SNSを使わない方は、政府が決めた結果のみが耳に入ってそこからスタート。情報量の違いは大きく、価値観や人生観も多様化しそうです。

 それが教育に反映されていることが問題です。

 実際には、物理的要素だけではなく心理的ハードルも存在はしますが、とにかく物理的な問題だけは解消して欲しい。選択肢が有っても環境的に選べないのは教育の権利を保障することにはなりません。

 先日、「秩序や規制は、全ての人の対話の権利を保障するためにある」と、フレイレという南米の教育者の言葉を知りました。(原文のままではなく自分なりに要約した言葉に変えています)

 格差拡大の対応のためにも、簡便に早急に場を設けられるオンライン交流会が有効に機能する意義は高いと思います。

変化の受容も促進する

 過去3年間、オンライン交流会をしながら、なぜこんなに便利で役に立つものの利用者が少ないのだろうと思っていましたが、今回のコロナのことで、zoomの利用者が1000万人から3億人に増えたそうです。

 必要に迫られたら動くスキルもツールもある。けれども、使わずにいたということは、それだけ恵まれていた、変化を必要としてなかったということでもあるのでしょう。

 変化は怖さを伴いますので、進んで変化を望まないのは人間の常ですが、この先も、自然災害や地震などのリスクがあることは散々言われており、もっとクリティカルに、一歩先読みしながら、利権維持向上ではなく、共生社会実現に貪欲になっても良いと思っています。

 クリティカルというと対立をイメージするかもしれませんが、必要なのは対立ではなく対話。同調圧力が強いことは、少しそこから外れた時に対立につながりやすいです。そこに弾力を持たせるのが対話であって、自然とサバイバルスキルを養います。

ミッションホルダー同志として困り感を共有しよう

 オンラインでの場は、綱渡り中・予備バッテリー使用中のような期間限定の感覚かも知れませんが、実は、この先しばらくは、命綱やメインバッテリーになるかも知れません。

 対面中心だった方には非常に負担が大きいと思いますが、その新たな気づきを内部で分かち合うだけでなく、この際、国内異文化交流して対話の方向に繋ぎませんか。

 注目度が高い中で、スピーディに、以前と同様のボリューム・クオリティを守るプレッシャーは生じると思いますが、教育は提供するものではなく、みんなで創るもの。提供すると思ったらそれは「伝達」にすぎません。

 また、教育に関してクオリティやスピーディな対応が求められることは、今に始まったことではないはずです。それが出来ないことは、誰かの力不足や無知ではない。こういう時こそ、役割や立場を超えて、洗いざらい不安や困っていることを出し合って、教育を考えて再構築したらよいと強く思います。

 役割や立場がミックスされることで、秩序の崩壊を恐れるかもしれませんが、実際人々は、対等・平等ではないし、立場の違いはなくなりません。

 だからこそ、少しの時間でよいので、人間同士として、子ども達に質の高い「教育」を与えるという共通のミッションホルダー同志として語りあってみる場が有っても良いのでは、という提案です。

 その場をもってしても最善には至らないかも知れません。それでも、一致団結してひとつの目標に向かう姿は、アフターコロナやこの先の予期せぬことを乗り越えていく経験値になるでしょうし、子ども達にとっても何よりの教育ではないでしょうか。

新たな関わりで教育を動かす

 タイトルに書いた「保護者交流会をオンラインで実施する意義」。

 もう何度も書きましたが、それは、PTAの在り方が変わるきっかけを作ること。

 今の大きな変化を機に、立場や役割を超えて知恵を出し合って統治する場(ガバナンス)を低コストで早急に実現して、関わりや教育を再考・試行できるという点です。

 今のままだと、教育が仮住まいへの引っ越しや建て増しのまま進んでしまいそうです。不安の根源はココかも知れません。

 役割や立場を重んじる縦割り社会に守られ、責任ある立場の方々に安心して委ねて来た部分もありましたが、委ねつつ注視し、伝える必要性を今、学んでいます。

 オンラインでは、参加者全員が同じ大きさの窓で登場し、持ち物や振舞いといった付属情報が届かないため、言葉や表情からその人となりがフォーカスされ、人と人として対等に関わりやすい環境です。

 揺らぎを崩壊に至らしめないために、ソーシャルディスタンスを保ちながらも、各自が心のディスタンスの適正化を図る場を必要としているのです。

 それを自己責任として、家庭や個人に背負わされてきた構造を変え、社会や地域の中に居場所を感じられる人が増えたら、何のために学ぶのか、何故教育が必要なのかという問いに、必ずぶつかると思っています。

 その原点に立ち戻る暇を持てずに来た私たちですが、今くらいは、垣根を取り払い、肩の力を抜き、制服を脱いで、人類皆兄弟みたいな時間を持ってみても良いのではないでしょうか。 


 

 

 

ひとり一人に合った教育環境の実現を目指します。