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富士のかぐや姫――富士の祭神、赫夜姫、木花咲耶姫

 現存する日本最古の物語は、『竹取物語』とされている。
 神仙思想・羽衣伝説との関連性も論じられるこの物語は、いまだ作者の特定に至っていない。10世紀代に記された文献に、既に名前が見えることから、少なくとも10世紀中ごろ(平安時代初期)には成立していたことは確かである。

 児童書や絵本で読んだことがある方もいるだろうし、映像化作品で見た方もいるだろう。故高畑勲監督により、アニメ映画化もなされている。


 『竹取物語』のあらすじを改めて書いておこう。現存する写本にはいくつかの系統があり、細部に違いはあるものの、おおよそは以下のとおりである。

 今となっては昔のことだが、竹取の翁というひとが、野山の竹を取っては様々に使って暮らしていた。ある時、翁は竹林の中で、根元が光っている竹を見つける。その竹の筒の中には、三寸ほどの美しい姫がいた。翁には子供がなかったので、彼女に「なよ竹のかぐや姫」という名をつけて、自分たちの子供として育てることにした。
 やがて、かぐや姫は当代随一の美女として、都に名が届くまでとなった。かぐや姫の美貌をききつけて、五人の貴公子が求婚するものの、姫は全員に無理難題を要求して断ってしまう。とうとう、時の帝からお声がかかるものの、かぐや姫の答えはつれないものであった。
 やがて、かぐや姫は月を見ては物思いにふけるようになった。翁が理由を問うと、「自分はこの国のひとではなく、月の都の住人である。八月の十五日に月から迎えが来て、自分は帰らなくてはならない」と答える。
 これを聞いた帝は勇壮なる軍勢を送り、かぐや姫の警備をした。ところが、空から月世界の天人たちが下りてくると、武士たちは戦う気力を失ってしまい全く役に立たなかった。
 かぐや姫は最後に帝への和歌と、天人が持ってきた不死の薬を残して、月世界へと帰ってしまった。
 帝はかぐや姫が去ったことをとても悲しみ、不死の薬もかぐや姫がいなければ意味がないと、焼き捨てることにする。帝が「最も天に近い場所はどこだ」と尋ねると、ある人が駿河国にある山だと答えたので、そこで不死の薬とかぐや姫の手紙を焼くこととなった。この不死の薬を焼いた山は「不死ふじの山」、転じて「富士の山」と呼ばれるようになったという。


 さて、本記事のテーマは「富士のかぐや姫」である。広く知られている『竹取物語』では、物語の後日談に富士山が登場し、地名起源説話としての側面も見せるが、「富士山」と「かぐや姫」に直接のかかわりはあまりない。

 しかし、富士山の南側、今日の富士市・富士宮市周辺では、『竹取物語』とは異なる「かぐや姫」の伝承が語り継がれている。
 研究者の中で「比奈赫夜姫ヒナカグヤヒメ」と呼ばれるこの伝承について、今回は覚書程度に記録しておきたい。


 「比奈赫夜姫」譚は、富士山の祭神にまつわる伝承である。今日、富士山の祭神として知られているのは、記紀神話の神「木花咲耶姫コノハナサクヤヒメ」であるが、中世から江戸初期にかけて、富士山の女神としてまつられていたのは、「赫夜姫」だったのである。

 「赫夜姫」と「木花咲耶姫」の関係については後で触れるとして、まずは「比奈赫夜姫」譚の概要を整理しよう。

 「比奈赫夜姫」譚に関する研究を数々なさっている植松章八氏は、「比奈赫夜姫」の必要十分条件として、「比奈地名」「養父母神」「富士帰山」の3点を挙げている(植松 2010)。つまり、現富士市比奈が物語に登場すること、「赫夜姫」の養父母が登場すること(そして養父母が実は富士山にかかわる神であったことが物語の中で明かされるケースが多い)、「赫夜姫」が月世界ではなく富士山に帰ること、である。

 文献によって細部は異なるものの、上記の3要素を含んだ物語が、富士山の南麓において語られているのである。具体的なあらすじの一例が、富士市の博物館である「富士山かぐや姫ミュージアム」のホームページで紹介されている。興味があれば参照していただきたい。


 「比奈赫夜姫」譚の成立は、14世紀初頭以前と考えられているが、現存する最古の文献は断片的であり、その全容が解明されているとは言い難い。
 しかし、物語の根幹をなすのは、富士山の神であり、地域の神である「赫夜姫」の起源説話と、本地垂迹説に基づいた「大日如来=浅間大菩薩=赫夜姫」という図式である。律令期からつづく富士信仰の中で、時代ごとに富士山の神の姿は変化し続けたが、その一端を担ったのは「赫夜姫」であった。


 漢字表記こそ変動があるものの、「カグヤヒメ」の名を持つ神は、複数の文献に見られる。その時間的幅も存外長く、鎌倉時代末期から、最も新しいものでは幕末にまで残るのである。

 しかしながら、現在富士山の祭神となっているのは、記紀神話の神「木花咲耶姫」である。この矛盾の理由は何だろうか。
 植松氏は別の論文で、「カグヤヒメ」と「木花咲耶姫」が入れ替わった経緯についてもまとめている(植松 2014)。
 これによれば、「木花咲耶姫」を富士山の祭神とする最初の事例は、集雲守藤の『集雲和尚遺稿』で、慶長19(1614)年のものである。
 その後、元和2(1616)年には、林羅山が三嶋社に祀られる「大山祇神」と「木花咲耶姫」が父子であることに言及し、富士の祭神を「木花咲耶姫」と述べている。林羅山は「カグヤヒメ」の存在も認識しており、「カグヤヒメ」の伝承はより新しいものであると位置づけている。

 この現象の背景には、仏教勢力の腐敗に反抗した廃仏・崇神運動という、江戸幕府による宗教統制と、これに伴う学問潮流があると植松氏は論ずる。
 先述のとおり、「赫夜姫」信仰の基盤となっているのは、本地垂迹説や権現思想といった、仏教の要素が強い神仏習合である。仏教の衰退と同時に「赫夜姫」は凋落し、神道の隆盛に呼応して「木花咲耶姫」がその座を埋めたのである。


 現在、富士山の神として「赫夜姫」を挙げるひとはそう多くないだろう。「浅間大菩薩」ひいては「大日如来」と結びついている「赫夜姫」であるが、その信仰の性質としては、現世利益、特に「恋に迷うものが縋れば必ず救われる」という伝承が残っている。おわかりのとおり、修行により悟りを開くような「ホトケ」の信仰ではなく、人々に今生において救いをもたらす「カミ」への信仰であった。

 忘れ去られたかに思われた富士山の神、「赫夜姫」は、再び見いだされ、研究が進められている。先ほど引用した「富士山かぐや姫ミュージアム」では、「赫夜姫」信仰についての展示がひとつの目玉となっている。
 筆者もいまだ訪れたことがないので、いずれ展示を見に行きたい。



参考文献
岡田明良 2014 「比奈赫夜姫をめぐる原風景」『富士学研究』12 巻 1 号 p. 8-16(Jstage→ https://www.jstage.jst.go.jp/article/fujisan/12/1/12_8/_article/-char/ja/
植松章八 2010「語り物・唱導文芸と比奈赫夜姫譚」『富士学研究』8 巻 1 号 p. 1-8(Jstage→ https://www.jstage.jst.go.jp/article/fujisan/8/1/8_1/_article/-char/ja/
植松章八 2014「富士山信仰にみる比奈赫夜姫」『富士学研究』12 巻 1 号 p. 17-37(Jstage→ https://www.jstage.jst.go.jp/article/fujisan/12/1/12_17/_article/-char/ja/
「富士山かぐや姫ミュージアム」 2023/5/14閲覧
https://museum.city.fuji.shizuoka.jp/



この記事は、筆者の知的好奇心を刺激してやまない世界中の各事象について、備忘録的にまとめているマガジン『奇怪なる百科事典』の一項である。他の項も覗いてみたいという物好きな御仁は、下記のリンクより目次をご参照いただきたい。


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