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Shirokanipe ranran pishkan/銀の滴降る降るまわりに【読書記録:知里幸惠『アイヌ神謡集』】

 先月、岩波文庫から補訂新版として『アイヌ神謡集』が出版された。1923年8月に初めて刊行されてから、100年の節目である。
 以前から手元に置いておきたいと思っていた本だったので、この機会に購入した。

 さほど厚みのない200頁少々の文庫本なので、早い方は一日もあれば読んでしまうだろう。そのうち四分の三ほどが『アイヌ神謡集』本編であり、見開きに横書きで、左側にローマ字表記のアイヌ語、右側に日本語訳が配置されている。
 アイヌ語がさっぱりな私は右側を中心に読んでいくことになったので、実質読む部分(と言うより読める部分)は半分ほどだ。それもあって、すらすらと読み終えてしまった。

 この本について語りたいことはいくつもあるのだが、まずは著者の知里幸惠さんについて述べておこう。
 彼女はアイヌ母語話者としてほぼ最後の世代に生まれ、激動の時代の中でアイヌの言葉と伝承が滅びゆくことを憂い、本書『アイヌ神謡集』を記した。
 恥ずかしながら私はこの本を手にとって初めて知ったのだが、知里幸惠さんがこの著作を完成させたのは19歳のころであった。そして本書が、彼女の遺作となった。心臓に持病を持っていた彼女は、『アイヌ神謡集』の改稿を終えると同時に容体が急変し、出版を待たずして亡くなってしまったのである。

 『アイヌ神謡集』はアイヌ口承文芸と、アイヌ語の記録として重要であるだけではなく、その日本語表現の美しさについても、文学的価値を評価されている。とくに有名な「序」は、洗練された文体でアイヌの衰退を憂い、その文学の消失を惜しんでいる。そこに見られる痛いほどの崇高な志を、19歳の少女が抱き、文字通り命をかけて書き記したという事実は、多くのひとびとの胸を打つだろう。
 少なくとも私はこのことを知ったとき、大変な衝撃と恥ずかしさを覚えた。幸運にも私は今日までに、知里幸惠さんよりもいくらか長い時間を与えられているわけだが、はたして何を為しただろうかと、漫然と日々を浪費した自分が腹立たしくてならない。
 私自身、己が何かを為せると信じているわけではないが、もう少し時間を大切にしようと思うのである。

 知里幸惠さんについては、私の拙い説明よりも素晴らしい研究が進んでいるので、これくらいにしておこう。
 とりあえず大切なことは、私の心に存在する「尊敬する人物一覧」に、彼女の名前がしっかりと刻まれたことである。


 閑話休題。せっかくなので、『アイヌ神謡集』にて語られる物語についても、少し触れておく。
 私はこの本を読んでいて、はじめて「オキキリムイ」というアイヌの神話的英雄の存在を知った。
 物語の中でオキキリムイは、人間でありながら神のように知恵があり、情け深く、勇気に満ち、力があり、美しいひとであると描写される。『アイヌ神謡集』に収録される十三編の物語のうち実に九編には、何らかの形でオキキリムイが登場している。
 英雄オキキリムイは、谷地の魔神を退治したり、狐の神による困難から逃れたりと、縦横無尽に活躍を見せる。中でも個人的に、「Isepo yaieyukar, "Sampaya terke"/兎が自ら歌った謡「サンパヤ テレケ」」という一遍が面白かったので、あらすじを紹介しよう。

 この物語の中では、はじめ兎は鹿と同じくらいに大きな動物であったとされている。しかし、とある兎の神が人間が仕掛けたいしゆみにいたずらをして壊すのを好んだため、これに怒ったオキキリムイに罠にかけられ、捕獲されぶつ切りにされてしまう。
 普通であれば兎は儚くなってしまうところだが、これは神話世界のお話である。ぶつ切りで煮込まれながらも兎の神の自我はあり、逃げ出す算段を立てている。完璧に煮込まれてしまえば流石に死んでしまうらしいのだが、ひとかけらの肉片であっても、火が通る前に鍋から脱出すれば、何とか命を繋ぐことができるらしい。
 兎の神は自分をひときれの肉に変え、湯気に紛れて鍋から飛び出し、遁走を図る。見事に逃げ切った兎の神だったが、鹿ほどもあった巨体は今や肉ひときれ分しかない。
 このようないたずらの結果、現在の兎は、オキキリムイが切った肉ひときれぶんの大きさになったのである。これからの兎たちよ、けしていたずらをしなさるな……と、物語は結ばれる。

 ――オキキリムイはだいぶん大きく肉を切ったものだなあ、と思わなくもないが、兎が鹿ほどに大きな生き物であったという発想など、なかなか面白い話だ。全国の兎飼いの皆さんも、鹿ほどの大きさのある愛兎に思いを馳せてみるのはいかがだろう。足ダンで部屋が壊れそうだ。

 この「サンパヤ テレケ」のほかにも、アイヌ神話独特の発想と展開に満ちた物語を、たっぷりと堪能できる本が『アイヌ神謡集』である。
 知里幸惠さんの流麗な日本語に魅了された後は、金田一京助氏の「知里幸惠さんのこと」を読んで涙を流し、知里真志保氏の「神謡について」で見識を深めることができる。新版の発行にあたり、補訂を担当した中川裕氏の解説と関連文献を参照するのもよいだろう。
 私のような、アイヌ文化初心者の入門書としても、今回新版となった『アイヌ神謡集』はうってつけの本である。
 秋の夜長も近くなる今日この頃、北海道の大地に暮らしたひとびとに思いを馳せるのも、素敵な時間の使い方ではないだろうか。


《書籍情報》
中川裕補訂 2023『知里幸惠 アイヌ神謡集』岩波書店

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