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落語とメタ的表現に関する覚書

 今日、落語を見てきた。東京は半蔵門、国立劇場にて開催された、桂文珍師匠の独演会である。
 誘ってくれたのは私の母の友人であり、私の幼少からの文通相手でもあるひとだ。彼女には、この間も春風亭一之輔・三遊亭遊雀両師匠の二人会にも誘ってもらった。次は文楽など見に行こうかと言っている。

 独演会を堪能し、劇場にした我々は、半蔵門のタイ料理屋で、異国の味に目を白黒させながら舌鼓を打った。すべて初体験の味だったが、鶏肉ばかりのメニューが好みに合ったので、私はいっぺんにタイ料理が好きになってしまったのだった。


 タイ料理初体験の感想は別の機会に譲るとして、今回は、落語に関する個人的な覚書を記しておく。

 何度か落語の公演を見ていて、ふと気づいたのだが、落語ほど「メタ的表現」と相性がいいコンテンツはないのではなかろうか。
 私が言う「メタ的表現」とは、例えば漫画の中に漫画家自身が登場したり、「ページ数の都合で……」とキャラクターが発言して展開を端折はしょったりする、あれのことだ。
 実に感覚的で申し訳ないが、比較的昔の漫画に多いような気がする。具体的には、トキワ荘の各面々が頻繁に使っているような印象がある。

 私は特に、手塚治虫、石ノ森章太郎両先生が大好きなのだが、おふたりとも素晴らしいストーリー、世界観の漫画を描くにも関わらず、各所に気の抜けるようなメタ的発言・表現が潜んでいる。
 それでいて全く白けたり、雰囲気を壊したりしないのは、当時の漫画の「テンポの早さ」に由来するのではなかろうか、というのは私のあてずっぽうの推測だ。

 私の憶測の妥当さはともかく、最近の漫画、特にストーリー的な漫画では、メタ的表現はかなり難しい。ギャグ・シュール系の漫画であれば可能だが、昔の漫画に比べればいくぶん減ったように思う。

 これが小説となると、さらにメタ的表現が入り込む余地はなくなる。各人の脳内で世界が構築されていく小説というコンテンツでは、メタ的表現による没入感の阻害、白けの発生を回避するのは至難の技だ。
 小説において作者の自我が許される範囲とは、「まえがき」「あとがき」あたりが精々であろう。それに、文章で作者の自我を出したいのであれば、エッセイやノンフィクションなど、他のコンテンツが適任である。

 そして、問題の落語である。
 「ストーリーを語る」「読者・観客の想像力に補完されて物語が浮かび上がる」といった点においては、小説と落語の共通項は多い。しかし、小説で不可能に近かったメタ的表現が、落語では巧妙に、笑いのきっかけとして練り込まれている。
 語り手である落語家本人は勿論、実在のもの、ひと、ことが、次々と登場しては、聴衆の笑いと共感を誘う。現代的な要素と、古典的な要素が多少ないまぜになって、冷静に考えると世界観があやふやだったりもするのだが、聞いているときは気にならないのが、名人芸というものなのだろうか。

 まあ、落語と比較するのが漫画や小説でいいのか、という点は議論の余地があろう。落語の即興性、観客との空間の共有、コミュニケーションの双方向性を考えれば、演劇や漫才、コントと比較するほうが妥当であるかもしれない。

 しかし、文章と活字での表現に慣れたいち人間として、落語という表現の柔軟さ、自由さに改めて気づかされ、感嘆させられたのだ。その感想をどこかに書き記しておきたく思い、こうして帰途の電車の中で、ぽちぽちと文字を打っている次第である。

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