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飲み込んだコトバをカタチにする


それは承認欲求なんじゃない?
いいこと言いたい、そしてそれを認めてもらいたい、っていう。

そうなんですかねぇ。
うーん、そうなのかもしれないですねー。



そんな会話をしてから、ほんのりと、けれどずっと考えていました。わたしはどうして文章を書くのだろう、書きたいと思うのだろうか、と。

自分の気持ちをつらつらと書いたものが誰かに読まれて、その誰かの気持ちに何かが届いた証にリアクションをもらったときは驚いたと同時に嬉しかった。でも、それが承認欲求だったとして、そのためだけに書き続けるということを果たしてわたしが出来るのだろうか?と疑問だったのです。



言えなかった言葉がたくさんある。吐き出さなかった思いが無数にある。

本音を伝えようとすれば涙が出るし、口論なんて出来ない。思っていることを伝えるには準備と覚悟が必要で、そのための勇気を出すのに時間もかかる。その間にも時間は進んでいて、気持ちは置いてけぼり。

他人からどう思われるか、他人は何を望んでいるか、自分の置かれているポジションとして相応しいものはどれか。長い間、基準をそこに設置して生きることが基本となっていた気がします。


飲み込んで消えてしまった言葉 後味がわるいな

高校生のわたし

高校生の頃にひっそりとノートに書いていた歌詞の中の一文。思春期多感期と呼ばれるあの頃、自分の中に芽生えた感情や湧いてきた思いのうち、一体いくらを言葉にして吐き出すことが出来ていたのでしょうか。

言葉を飲み込むたび、言葉になれなかった思いは蓄積されていきました。たしかに形を持っていたそれは、積もっていけばいくほどに原形が分からなくなりました。でも、そのモヤモヤしたものが心の中で消えることはありませんでした。

そうして蓄積したモヤモヤは、気付けば被害者意識というものに変貌を遂げていました。言いたいことも言えないこんな世の中じゃポイズンとはよく言ったものです。

けれど、それは違うと次第に分かってきました。いつから被害者になっていたんだわたしは。一体誰を加害者にしようとしていたんだろう。それぞれが主人公の人生を生きているだけなのに。責任も権限も自分にあるのに。



本音を口に出そうとすると涙が出てしまう。だからわたしは、それらの言葉を書き出すことにしました。思いを書いて、言葉として吐き出す。そうすることで、積もっていたモヤモヤがすーっと溶けていく感覚がありました。


ああ、そうだ。わたしは悔しかったんだ。
あのときのわたしは悲しかったんだ。
いや、あれは怒りだったのかもしれない。
そっか、わたしはずっとこれを望んでいた。
本当は知られたくない綺麗じゃない気持ち。

書くことでカタチを持った、飲み込んだ言葉たち。


あのとき触れたやさしさは、一体どれくらいの温度感だったかな。
助けられた経験で得たものを言語化してみたい。
どうしてわたしはこれに苦手意識を持っているのだろう。
こんな風に考えるようになったのはいつからだろう。
形容詞を繋げただけでは表せないあのときの気持ちを忘れたくない。

浮かんでは消えてしまうシャボン玉のような気持ちを残しておきたくて、綴った文章。



わたしが文章を書くことをやめられないのは、それによって自分の声を聴くことができるから。絡まった思考をほどきながら、静かに自分と向き合うことができるから。忘れたくない気持ちを形取ることができるから。

そしてその先に、その形を持った気持ちを共有できることが時々ある。それは嬉しいことだったし、もしもそれが誰かの役に立つならもっと嬉しい。







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