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キミの優しさでいっぱいの世界


先日、こんなツイートをしました。

こちらに登場した同僚は、実は学生時代の同級生です。現在の職場に私が契約社員として入社したら彼女がいたというミラクルがあり、現在は「30代、如何にして生きる??!」という悩みを延々と悶々と語り合う仲です。

ツイートした通り、ぷかぷか浮遊している幸せ達よ、どうぞ彼女にくっついてください。と願ってしまう程に、彼女はとてもとても優しい人です。

彼女には推しがいるのですが、もしも岡山の田舎に、さんまの夢かなえたろかインタビューがやって来て私がマイクを向けられたのなら、「彼女と彼女の推しをご対面させてください!!」と答えようという妄想を20回はしています。きっと彼女に一度でも会えば、誰でもそう願ってしまいます。さんまさん、お待ちしています。

先日は、ほんっと優しいなぁ!!!という感情が溢れた故、こんな会話をしました。

「あのな、昨日不意に思ったんじゃけど、」
「うん?」
「世界人口の半分が、◯◯だったらいいのになーって。」
「へ??半分が私?!やばいやばい!笑」


人口の半分が優しくて思いやりのある◯◯だったら、きっと世界が優しくなって、その優しさがマイナスイオンすら発生させて、人々はマイナスイオンのある場所へわざわざ出向かなくてもいいようになると思うんです。

彼女の言葉は優しいから、吐く息はマイナスイオンだし、思いやりのある行動で心が温ることによって外気は下がるという現象が起きるのではないかと。地球温暖化もストップすると思います。

ただ、私は時々思っていたのです。
彼女は、優しすぎる。

彼女がいつでも優しすぎて、見えないところでも誰かのために何かを出来る人だから、見えない部分の彼女の配慮や努力を当たり前に受け取ってしまう人が増えすぎている。

でも、優しすぎるって、何でしょう?まるで良くないことみたいに聞こえるではありませんか。優しすぎるって、ただただ、とてもとても優しいだけなのに。素晴らしい才能で、魅力的なことなのに。

こういう人にこそ、優しい世界で生きて欲しい。
彼女だっていつも自分の心に余裕があるわけではないんです。そういう時の他人に対する優しさは、彼女自身の我慢がきっと伴っています。自己犠牲の優しさは優しさではないと言われたりもしますが、その優しさに救われて社会が成り立っていることがあるのも事実です。


では、どうすればいいんだろう?と考えた結果、それならば、世界に彼女のような人が増えればいい!そう思いました。自己犠牲の優しさを増やそうという意味ではなくて、誰かが自己犠牲しちゃう前に、みんなのちょっとした気づきと優しさでカバーできればいいなというのが理想です。

ピクミンのように彼女の優しさがぴょこぴょこと増えていけば、なんとなく世界は変わる気がします。まずは私から。世界規模の話は出来ませんが、私の生活圏内で、背伸びをしない程度に。


今日は、#世界親切デー だそうです。ニュージーランド政府観光局が教えてくれました。


自分がもらって嬉しかった言葉や、受け取ってありがたかった親切は、いつしか他の誰かの為になる。きっと巡りめぐってゆくものです。私だって、みんなの親切で日々生きていられています。

今日は、みんなの親切パワーで地球を回しましょう。

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