書きたいものを書くべきだ
「パンセ」にもさまざまな形式がある。パスカル、マセ、xxx……僕は戯曲や詩を書き、小説を書こうとするけれど、やりたいのは要するに「パンセ(思索)」なんだ。
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断章形式、というか個別のエッセーだけれども、読んでくださった方が前後のエッセーにつながりを見出す。
能動的な読書。
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“人間たちは、永続する危機状況、永続する緊急事態において生きることにこれほどにも慣れてしまった”(ジョルジュ・アガンベン)
“自分の生が純然たる生物学的なありかたへと縮減され、社会的・政治的な次元のみならず、人間的・情愛的な次元のすべてを失った、ということに彼らは気づいていないのではないか……”(ジョルジュ・アガンベン……『現代思想』2020年5月号)
アガンベンが言うことは、フーコーの生政治に根本的に通じるのだと思います。僕が『No. 1 Pure Pedigree』で描きたかったことだ。
個人と集団の関係性について。どちらがよくて、どちらがわるいという話ではない。ただ、個人とか集団とか、またそれらを規定する社会とはつねに取り扱い注意の状態にあるのだということ、答えのない──あるいは答えを出すべきではない──問題を俎上にあげること、それは芸術が担うべき大き過ぎる役割だと思うし、実際僕はその役割を追いかけるようにして〈意味のないもの〉を製作しつづけている。
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芸術はリベラルでも保守でもない。間違っても、リベラルだから芸術なのではない。
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「だ・である」は断定的であるから、多くの人が目にする文章を書く場合はきょくりょく使用しないほうがよいかもしれません。
基本的に文章は敬体(「です・ます」)でつむいだほうがよいでしょう。
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曖昧に物を言わなければ波風が立ってしまうのは、直截的に言葉をつむごうとし過ぎている証左。
敬体で書くことは、伝えるために書くこととほとんど同義だから。
つまりどういうことかというと、私たちがていねいな言葉づかい(敬体)を選択しようとするのは、直截誰かへ伝えるためだから。では、直截伝える必要さえなければそもそも敬体で書く必要などないのではないか。
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ひとりごちるように書きたい。
ひとりごちるようにパンセをしている。
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ひとりごとが隣席に座る人に聞こえてしまうように、ひとりごちるように書いた物も時として誰かの目を汚す(かもしれない)。そうしたらひとりごとの聞こえない場所へ、席を移せばよい。イヤフォンで耳を塞いで、代わりに心地よい音楽をかければよい。
僕はどうやらていねいに当たり障りなく書こうとし過ぎていたのかもしれない。
まるでブラックホールのような自己監視のスパイラルに陥り、
実在するかどうかも知れない無限の罪責を背負って、
じぶんでじぶんを神経症にせしめ、
じぶんでじぶんを神経症と診断する。
書きたいものを書くべきだ。もっと。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。