見出し画像

【短編小説】 詩人(空っぽの蒸留器)


 湖のほとりに佇む邸宅に滞在しているあいだ、なにひとつ自分の言葉を書けなかった。出逢った人と場所、空気……そのようなものを記録して遺しておくために、言葉にした。突如、運命の、大転換は起きた。詩が舞い降りてきた!

と表せば恰好がつくかもしれないが、実態はもっと醜い。湖のほとりに佇む邸宅に滞在しているあいだ、まとまった文章を書けなかった。出逢った人と場所、空気……そのようなものを記録して遺そうとはしたものの、浮かぶ言葉は、水滴が蒸発し空気の一部になって視認できなくなるみたいに、一定時間が経過すると消えてなくなってしまう。そのため、それらを保存して掬いとってやる必要があった。

 浮かぶ言葉を逃さないために書き留めておいたA6サイズのノートブックを、その日の終わりにそれを見返す。断片的な言葉の数々が並置されてある。それらをつなげて読んでみる。すると、それら(断片的な言葉の数々)は、詩になっている、ということに気がついた。

 出逢った人と場所、空気……に触れることで感じられること、そのニュアンスが置換され、抽出され、保存された言葉——それは香水の生成のようなものだ。ガラス製の蒸留器。においの素から抽出され、凝縮されたエキスの一滴、一滴——だとすれば、わたしは空っぽの蒸留器のようなものだ。


関連記事

2023/10/05

【詩】 無題 (2023/10/04)

「自分の隣人を実践的に、そして怠りなく愛するように心がけてください」


今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。