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お前達は狂気が足りない(「ミューズの真髄」を読んで)
『ミューズの真髄』(ビームコミックス) の1,2巻を読んだ。
この物語は、主人公の美優が美大受験を通じて自己と向き合いもがいていく話だ。とにかく素晴らしい作品 & 本記事はネタバレであるため一度読んでほしい(この記事の読者は既読と思われるが)。
ここで2巻に登場する、いわゆる成功者(作中では「美術の神様(ミューズ)に愛される人」と表現される)とその環境についての表現が非常に鋭く感銘を受けたため、このnoteをしたためている。
ちなみに(当然だが)本noteは『ミューズの神髄』の表現に感銘を受けた私の考えを言語化したものであり、必ずしも本の内容やテーマ通りの解釈ができているとは限らないことに留意いただきたい。
成功者の狂気
美優(主人公)は自分がミューズに愛されていないと考えており、愛される/愛されない人の違いはどこにあるのか?という疑問(というより感嘆)を呈する。
それに対して答えるのが、主人公の通う美術予備校の講師である月岡未来である。彼女は以下のように述べている。
絵で成功する人はみんな狂気を持っている それが差だと思う
恐らく美術の世界以外についても、これは同じことが言えるのではないのだろうか?より本質に近づくために掘り下げたいと思う。
成功者の狂気にについて掘り下げるとまず「感情的狂気」があり、そこから「時間的狂気」としてわかりやすく表層化すると思う。
(追記:以降つらつらと狂気について書いているが、簡単にまとめれば「あらゆる時間や感情のリソースを一つのことに注ぎ込むのは側から見れば狂気だよね」ということであるため、興味がなかったら「地獄でしか息ができない生き物」まで飛ばしてください。)
感情的狂気
成功者には、あらゆる経験やその感情を全て特定のものごと(極めようとする物)にコミットする狂気があると思う。『ミューズの真髄』を題材に考えたいと思う。
主人公の美優は、何か感情が揺れ動くと、それを様々な方法で表現する。家出してみたり、男友達に見せつけてみたり、髪を切ってみたり、もちろん絵を描いたり。
ここで、主人公と同じ予備校に通う相原くんが、自身の絵が講評にて褒められ、絵の狙いを聞かれた際の答えを見てみたい。
何か…その頭の中に黒いもやみたいなのがあって
ずっと俺を否定してくるっていうか…
毎日毎日うるさくて怖いんです
だから俺そのモヤからの逃避みたいなのが描きたくて……
全然表現ができておらず、なんなら講評の先生も「うーんよくわかんないけど」という発言までしているが、絵という形では昇華されている。
おそらく相原くんは絵という形でしか表現ができないのではないのだろうか。ただし裏返せば、さまざまな感情の揺れ動きを絵で表そうとする(と言うかそうするしかない)わけで、それはもはや狂気と言えるだろう。
時間的狂気
成功者はの多くは、理想や高みを目指し一般人からすれば信じられないような時間的コストをかけ研鑽している。そしてそれを ”普通に” こなしている狂気がある。美大に通い、または夜間予備校に通い、人生をかけて絵を描き続ける人々はまさにそうではなかろうか。
また別業界でも、一般的に「優秀なITエンジニア」と呼ばれる人種は、その一日中を技術に捧げていることが多い。仕事中にソースコードを書き、お風呂に入りながら仕様について考え、休日は趣味の開発に勤しむ。そんな生活を何年と続ける。側から見れば何か悪いものに取り憑かれている様子だ。
これ以上例を挙げると冗長になるため控えておくが、音楽家なども同じことが言えるのではないだろうか。
この時間の向き合い方は2通りあると考えており、一つは日常をこなしつつそれだけ時間を割いている、いわゆる「いつ寝てるのかわからない人」。もう一つは何かが欠落し、そのかわり打ち込むべきものにコミットし続けられるタイプ。どちらにせよ何かに究極まで費やした人は総じて仙人のような雰囲気を纏い始めるイメージがある。
ここらの話はKuroroさんのツイートがとても参考になった。
ミューズの真髄2巻読んで『絵の成功者は皆狂気を持っている』の台詞が凄く印象的だった。自分の主観だがこの台詞の視点て、同じ世界である程度努力をした普通の人からの視点であり、まさにそう思う。これって絵の世界だけでなく他の競技や芸術等全てに通じる話で、(2に続く)
— Kuroro(元、腐乱子) (@rikaon966) September 3, 2022
補足すると、この時間的狂気と後続の感情的狂気は二分できるものでなく、やはり感情的狂気があるからこそ時間的狂気が成り立っていると思う。
地獄でしか息ができない生き物
次に、上記の狂気以上に私が衝撃を受けた表現について掘り下げさせてほしい。
講師の未来は「ミューズに愛される人」の話に関連して、美術について以下のように述べている。
美術の世界は地獄だよ
そこを天国だと本気で思える人が美術に愛された特別な人間なんだと思う
でも地獄でしか息ができない生き物もいる
2行目は先述の狂気の言い換えと思われる。この文で印象的なのは最後の一文だ。
「地獄でしか息ができない生き物もいる」
なぜ自分がミューズに愛されてないと知りながら地獄に身を置くのか、それは他では息ができないから。地獄であろうと窒息死よりはマシだろう。
おそらくこういう人は「そこを天国だと本気で思える人(≒狂気)」になるしか自己の理想系を見出せないのではないだろうか。地獄の外の世界では何をどう足掻いてもその自己の理想系には一歩も近づくことはできない。OLをやって一般的に幸せな形を築いても「ミューズに愛された人」にはなれない。だから息ができないのだ。
地獄はもちろん辛いこともあるだろうし、何なら最終的に天国に行けないこともわかっている人も大勢いる。だがほんの一歩でも天国近づけるのであれば、その一歩に一喜一憂し地獄であろうともその中で足掻くのだ。
私事で恐縮だが、私はITエンジニアとして仕事をしているが、自分がこの仕事に向いていないことを自覚している。ただし全てを技術に捧げる「強いエンジニア(地獄を天国だと信じる人)」に憧れ地獄にいる。最終的に天国に行けるとも思っていないが、それでも一歩でも天国に近づきたく地獄で足掻いている。
この「天国に行けないと思いつつも、地獄にいなければいけない人」言い換えれば「才能がないと思いつつも、その世界で足掻き続けている人」感覚を鮮明に表したのが「地獄でしか息ができない生き物」なのだ。
天才を題材にした名言は多くあるが、こう言った地獄で足掻く人々にスポットを当て、端的に表した一文は他に出会ったことがなく、非常に感動し、心のモヤがすこし晴れた気がした。
お前達は狂気が足りない
などと大袈裟なタイトルを付けたが、結局のところ「そんなこと言われても…」というのがここまでを踏まえた正直な返事だ(ちなみに「お前達」は実際には「私自身」に向けて言っている)。
地獄にいる者は、狂気が足りないことはわかっている。だが、狂気を持って地獄を天国だと思っている人々は「よし、狂気が足りないから増やそう!」と思い今の形になったわけではなく、これまで人生の積み上げと本人の性質の結果狂気を会得したのだ。一朝一夕で、足りないことを理解しただけで、補えるものは狂気ではない。
私たちができることはただ地獄で足掻き、その人生の積み上げが結果狂気につながることを祈るだけだ。
ミューズの真髄
※この章は公開後の10/15に追記したものです。
主人公の美優の本心について思うところがあるので、追記する。主人公は自身の気持ちについて以下のように述べている
私はただ何かに疑う余地がないほど愛されてみたいだけであって
それが
お母さんでも
龍円さんでも
鍋島さんでも
美術の神様でも
さほど違いを感じないのだと思う
これは、私が「感情的狂気」の章でも述べた、主人公が様々な方法で感情表現をしている事実とも合致する。
ただし、実際のところ、彼女が本当に愛されたいのは美術の神様なのではないだろうか(疑う余地がないほど愛されたとて、それが誰かで違いは感じるのではないだろうか)。
もし違いを感じないのであれば、なぜOLをしながら美術の夜間学校などに通うのだろうか。素敵なパートナーと出会えればそれで良いのではないのか。
その答えは、やはり主人公が「地獄でしか息ができない生き物」(≒美術の神様(ミューズ)に愛されるしか自己実現できない人)なのではないだろうか。そしてそれに気が付いてないのではないか?
なんとなく講師の未来との会話(「地獄でしか〜」など)で気が付いている雰囲気はある。が、変わった自分を絵でなくヘアカットなどで表現しているところは(地獄を天国にするための狂気を目指す面で言えば)また怪しい方向性に向かっている気もする(そして鍋島くんはその片鱗を感じ取っている気がする)
ここで思ったのは、この物語は主人公の美優が自分の置かれた地獄に、そして必要な狂気に気がつくまでの物語なのではないのだろうか。そして地獄と狂気そのものが「ミューズの真髄」なのではないのだろうか。3巻で完結するようなので、今から発売が非常に楽しみだ。
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