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「お母さんは、せなけいこ。私はルルちゃん」絵本作家の母と落語家の父を持つ、くろだかおるが振り返る、ちょっとかわった家族の思い出 小学生編


勉強はビリにならなければOK!

さて、生まれてから6歳まで「いやだいやだのルルちゃん」としてワガママ放題だった私も、いよいよ小学校に入ることになった。

幼少期編はこちらから。


真っ赤な新しいランドセルで片道10分ちょっとの小学校。
方向音痴だった私は、はじめのころ兄とその友達に学校まで連れて行ってもらっていた。そして、あっという間に学校に慣れた私は、毎日勉強しなければいけないということに驚くのだった。覚えているのは2年生のとき。学校で面談があり、母と私は担任の先生にこう言われた。
「かおるさんは、だいたいできているのですが、算数がちょっと……」
すると母は、「先生、かおるはクラスで一番ビリなんですか?」
と質問。びっくりした先生が「いえいえ、真ん中くらいですけれど」と答えると、「じゃあ、ビリになったら教えてください。そのときは、家庭教師をつけるなりなんなりして、勉強についていけるようにしますから。それまでは、そっとしておいてください」。
こう母に言われて、先生はショックを受けたそうだ。
その後、私の算数は特に問題なく、母にその事で注意を受けることもなかった。子どもの勉強に関しては一切の口出しをしないかわりに、通信簿もろくに見ない母だった。
あの個人面談以来、先生は「やっぱり親が絵本作家をやっていると変わってる」と思ったらしく、面談の翌日も私に「あなたのお母さんておもしろいわね」と言ったのである。

私は心の中で「」だった。先生の言っていることがわからない。そういうことがしばしばあった。クラスのお楽しみ会のこと。一人ずつ、前で何かを披露するというとき、私は歌にしたらという母のアドバイスで、イタリア語のオペラを歌った。クラスのみんなはドン引きだったけれど、先生だけは生ぬるーい目で見てくれた。

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親戚一同集えばオペラ

でも、これにも訳がある。母の実家は音楽一家でオペラが大好き。私の曽祖母は芸大で音楽を学んだあと、ピアノを教えていた。孫にあたる母やその兄弟をはじめ、ひ孫の私たちも当然学校へ入る前からオペラを教え込まれていた。私はイタリア語で「恋とはどんなものかしら」を歌い、兄はドイツ語の歌を歌っていた。母の実家に行くと、必ず発表会をすることになる。万事がこの調子だったので、歌に参加しない私の父や、おじさん(母の妹の旦那さん)は、「あー早くこの時間が終わらないかなあ」という顔をしていた。

その影響か、歌うのは好きな母だったが、ピアノは小さいころおばあちゃんに叩き込まれ大嫌いになったそうだ。結果として誰にも押し付けられなかった絵の道に進んだ母は、「もし絵を教えこまれていたら、今頃ピアノの先生になっていたかも」とよく言っていた。 

落語家のおかみさん会

そんな母にある日、1本の電話があった。相手は先代の林家さん平さんの奥さん。電話の用件は、「あなたも落語家のおかみさん会に入ってくれないかしら」というものだった。母は即座に「いえ、私には仕事があって、それが忙しいもので」と断ってしまった。それ以来「おかみさん会」からの電話が鳴ることはなかった。母にとっては、本を読むことや映画を観ること、展覧会へ行くことも仕事のうちなので、そんな時間はないのであった。学校のPTAの役割分担も「自分にはできないから」と、かわりにPTA便りに文章を書くことで免除してもらっていた。

とにかく、自分のなかで「これは必要、これは不要」とシロクロはっきりつける母は、こどもの私から見てもひんやりすることがあった。ただ今思うと、当時「おばけえほん」シリーズ「めがねうさぎ」シリーズも始まり忙しさのピークだった母にとって、育児をしながらがむしゃらに仕事をするための方針だったようだ。

忘れん坊な母と兄

そんな母だが、抜けているところもたっぷりあった!
母と兄はいわゆる頭がよく切れるタイプだったが、忘れものがすごいという点でも同じだった。大人になってから逗子の書庫で私が見つけたのは、兄の小学校の連絡帳。中を見るとノートには毎日のように忘れ物をしていた兄に、先生が「気を付けましょう」と書いていた。そして、ここからが問題なのだが、「息子から渡されたプリントをなくしてしまいましたので、もう一度ください。母」とも。あー、これはあれだあ。親子でダメなパターンだ。ノートにはこういうのがダラダラ続くのである。父と私は気性が荒かったが、忘れものはめったにしないタイプ。大人になっても、兄は自転車のカギ、電車の切符、傘を何度もなくし、母も手袋やらなにやら、しまいには「あれー、この家にはブラックホールがあるんだわ」と言って、探すのをあきらめる。ここだけが、唯一父と私がふたりに負けないところであった。


「サザエさん」に学んだ一般的な家族像

どうやら、このあたりから、うちの家はすこーし他の家と違うのかもと思いはじめ、どうしたら皆の家と同じように話ができるか、というのが私の課題になった。そこで活躍するのが、かこさとしさんの絵本「ことばのべんきょう」と、長谷川町子さんの「サザエさん」である。くまの一家の生活で言葉を覚える「ことばのべんきょう」は家にあったが、「サザエさん」は家になかったので、兄も私も児童館の図書室で全巻読破した。すると、「お母さんというのは、家でこんな家事をするものなのか」とか「サラリーマンという職業にはボーナスというものがあるらしい」という事がわかるのである。「みんなの家は、お父さんは外で仕事をするけれど、家に帰ると何にもしないんだなあ」なんて発見も。というのも、うちの家では、父が家事もよくやっていたし、自分のことは自分でやるのが当たり前だったから。私は小学生のくせに「世のお父さんは一人前じゃないな」という生意気な感想を持った。それでも、我が家では、母がいつも「あー、時間がない。仕事をする時間が少ない」とぼやいていた。

厳格な文化統制 お笑いは禁止!

冒頭に書いたように、勉強に関してはビリにならなければいいという教育方針のもと、母にも父にも「勉強をしなさい」と言われたことは一度もなかったが、文化的教育方針はかなり偏っていた。展覧会や映画に「仕事の一環」として足繁く通っていた母は、子どもにも同じものを共有させていた。

とにかく母基準の良いものを見せるというのが方針だったようで、兄と私は保育園の時から、消失する前の京橋のフィルムセンターによく通っていた。
映画でよく観ていたのは「オーケストラの少女」「天井桟敷の人々」などを。アニメは「皇帝の鶯」「雪の女王」「くもとちゅうりっぷ」「ちびくろさんぼのとらたいじ」などである。

なかでもロシアのユーリ・ノルシュテインやチェコのイジー・トルンカといった東欧のアニメが好きだった母は、子ども、特に兄には将来アニメーションの世界に行ってほしいという期待があったようだ。ところが母がピアノではなく絵の世界にいったように、兄もまた、親の思うようにはならず、ふたをあけると、東欧の言語、スラブ語学者(言語学者・黒田龍之助)になり、私は絵本作家になった。

テレビは教育的な子ども番組や、「トムとジェリー」などの外国アニメ、「おばけのQ太郎」や「ゲゲゲの鬼太郎」などを観ていた。
逆に劇画調のアニメーションや、日本中を沸かせていたお笑い番組などは下品だとか絵が気に入らないなどとばっさり。もっとも今となっては根拠のよくわからない母の思い込みだと思うが。落語家の父を持つ家庭として、だんだん客入りが厳しくなっていた舞台の世界にとって脅威となるテレビの大衆芸能に少し思うところがあったのかもしれない。

あこがれの水木しげるさん

兄は水木しげるさんの「ゲゲゲの鬼太郎」が大好きだった。でもまだ小さかったので、妖怪は面白いけど怖い。テレビが始まると、楽しみなのに怖くて、いつも母やなにかにつかまりながら一生懸命観ていた。ある日、母がラジオ番組に出たとき、司会の女性にあらかじめ「息子は妖怪が好き」と伝えてあったにも関わらず、本番で「せなけいこ先生のお坊ちゃまは怪獣が大好きとか…」と言われてしまい、兄は激怒した。「僕が好きなのは怪獣じゃなくて妖怪なのに!」とぷりぷりしていた。漫画も読むようになり、ページが欠けたりしていると、母につきそってもらい国会図書館で本を出してもらいコピーするほどだった。母も妖怪が大好きなのは、この時兄と一緒にになって見ていたからだろうか。のちに、母もおばけ好き作家として妖怪の絵本を何冊も出し、水木しげるさんと仕事で会えることになるとは、まだ誰も知らない話である。

そんなこんなで、ちょっぴりかわった文化統制だった我が家。とは言っても、ダメだけど見たいものは、友達の家に行って見ていたけれど。すべてが解放されたのは、兄が中学3年生、私が小学校6年生の時だった。


グルメな我が家 おばけのてんぷら

仕事に忙しく「てんやもの」も多かった母だが、「おいしいものを食べる」ということにはとりわけ重きをおいていた。思い出すのは、豚の脂身がたくさんはいった野菜ごろごろトロリ系のカレー。お相撲さんに直接習ったちゃんこ鍋……。でも特にみんなが好きだったのは、てんぷら(特に兄は)だった。

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絵本の題材にもなって長いこと読まれている「おばけのてんぷら」は、もちろん我が家の天ぷらがモデルである。兄と私がダイニングテーブルでスタンバイして、その後ろにあるコンロにかけたお鍋で、母が次々と天ぷらを揚げていくのだ。絵本にも、うさこの「てんぷらはあげたてにかぎるわ」というセリフがあるとおり、揚げるとすぐに「次、なすー」とか「次、えびー」とリクエストして、熱々の天ぷらを食べていた。なかでもみんなが好きだったのは「海苔」のてんぷらだった。食べやすい形に切り、衣をつけて揚げるのだ。これがパリパリ、クシュクシュ、シュワシュワしておいしい。だから、てんぷらの日は楽しみだった。めがねまで天ぷらにしたかどうかは、残念ながら記憶にない。

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ちなみに父も料理をやり、みんなが好きだったのは、冷たいソーメンに熱々に揚げたカレイをジューッと乗せて食べる料理だった。

ドタバタな父

落語家だった父は、前にも話したとおり、短期でキレやすく、怒りんぼうである。しかしもちろん良いところもあり、誰とでもすぐ仲良くなるし、ケチではなかった。少々おっちょこちょいだが、まあ家の中に車寅次郎がいると思ってもらいたい。もちろんトラさんがそうであるのと同様に、外では良いんだけど、家族は大変である。そんなドタバタな父の話を一つ二つ。

父は説明書というものを一切見ない。なので、たとえば新しいテレビがきても操作の方法を読まずいきなりいじるので、NHKしか映らなくなったことがある。ブーブー文句をいうと、「どうせおれが悪いんだろう!」と逆ギレする。芸人、特に話芸をする人なので、歯並びが悪いということで30代で総入れ歯にしていた父は、ときどきその入れ歯の調子が悪くなると、歯医者さんに行く前に自分で紙やすりをかけて何とかしようとして失敗。よけい調子が悪くなり、あとで歯医者さんに怒られたりしていた。またある時は、上履き洗い用のクリームクレンザーで頭を洗いそうになって家族にとめられたり……。家庭内のことだけならまだいいのだが、それが仕事にもおよぶのである。池袋の寄席で話をするときは、家族全員を連れていき、その帰りに、当時あった池袋スイミングセンターで泳ぐことが父の楽しみだった。寄席で話している最中、客席で見ていると明らかに早く話を終えたくてうずうずしている様子がとって見られ、家族はハラハラしたものである。

母が作ってくれたアップリケのバッグ

今考えると、共働きでの子育ては父も母も大変だったと思う。母なんか、外から見ると、家事など何もしていない人に見えたようだが、それでも母なりに頑張ってやっていた。
先ほど書いた料理もそうだが、クリスマスにはローストチキンを焼いてくれたし、編み物も兄と一緒に母に教わった。母はその他にも、私の保育園バッグを手作りしてくれた。デニム素材でななめにかけるタイプで、帽子をかぶった女の子の顔がアップリケしてあった。バッグを開けると帽子がぬげて、毛糸でできた三つ編みの髪の毛が出てくるというもの。とてもかわいかった。

父の読み聞かせ

父は、私だけを寄席に連れていく日は、帰りにスイミングプールに寄ったあと必ず立ち食いそば屋に連れていってくれた。そこではそばの食べ方を教わった。「いいか、かおる。そばっていうのは、モグモグ食べるものじゃないんだ。こう、そばをツーとたぐって、少しだけつゆにつけて、一気にのどで食べるんだよ」そこで父の落語家という仕事をしみじみ感じた。

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母が仕事で夜遅くまで帰れないときは、父が子どもたちに講談社の「弥次喜多道中記」(かなり古いもの)を読み聞かせてくれた。抑揚たっぷりの読み聞かせは、今考えると大変ぜいたくなことだ。何しろ本職に読んでもらっていたのだから。
他の家のように、遊園地に連れて行ってもらったり、車でどこかに連れていってもらったり、つめを切ってくれたり、耳掃除をしてもらったりはしてくれなかったが、父も母もできるだけのことはしてくれたんだと、今となっては宝のような思い出だ。


次回は、私の思春期について、お話します。

くろだかおる(黒田薫)
絵本作家。和光大学人文学部人間関係学科卒業。リズミカルでユニークな世界観が多くの読者を魅了している。父親は落語家の6代目柳亭燕路(1991年没)、母親は絵本作家のせなけいこ(瀬名恵子)、兄は言語学者の黒田龍之助。作品に、「ゆうれいとすいか」「ゆうれいとなきむし」『ゆうれいとどろぼう』(以上ひかりのくに)『はやおきおばけ』『おまつりおばけ』(共にフレーベル館)、新刊に母親とのエピソードから生まれた『おとうふ2ちょう』(絵・たけがみたえ/ポプラ社)がある。

せなけいこ(瀬名恵子)
東京に生まれる。モダンな作風で知られる画家の武井武雄氏に師事し、絵本の世界に入る。1970年に、「いやだいやだの絵本」(福音館書店)でサンケイ児童出版文化賞を受賞。絵本作家として独自のスタイルを確立する。ユーモアあふれる貼り絵で、おとなから子どもまで幅広い層に支持されている。作品に、『めがねうさぎ』『おばけのてんぷら』(以上ポプラ社)、「あーんあんの絵本」シリーズ(福音館書店)、「せなけいこ・おばけえほん」シリーズ(童心社)他多数がある。

六代目柳亭燕路
東京に生まれる。五代目柳家小さんに入門し、1968年、真打ちに昇進し6代目柳亭燕路を襲名。落語家としてのみならず、落語研究家として、古典落語の普及に尽力した。著書に『こども寄席』、『子ども落語』『落語家の歴史』など。