誰かの「好き」の時間を増やしたい――編集者として敗北感を抱くほど面白いレシピ本に込められたもの
負けた。完敗だ――
この本を読んで思ったのは、まずそんなことでした。
「今度出るレシピ本がめちゃくちゃ面白いから、ぜひ森さんも読んでみて」
営業部長からそう言われて手渡されたプルーフ。それは『23時のおつまみ研究所』というレシピ本でした。
手掛けるのは昨年ポプラ社企画編集部に入社した谷綾子さん。『おばけのかわをむいたら』『失敗図鑑』など数々のベストセラーを手掛ける名編集者で、ポプラ社に転職される前からお名前を存じ上げていたほどでした。
谷さん渾身のレシピ本ということで期待しつつ、でも内心ちょっと疑いつつ。
だってレシピ本とはレシピが載っている本のことです。おいしい料理を作るための情報がまとまっている物です。レシピ本が面白いと言われても、限界があるだろうと。なんならちょっと谷さんへのバイアスが入ってませんか?
そんなひねくれた思いを抱きながらページを開いた僕は、瞬く間にガツン!とやられました。
ページをめくる手が止まらず、読み進めるたびにボコボコに打ちのめされ、本を閉じた時に生まれた感情が、
負けた。完敗だ――
この記事を書いている森も、文芸編集者として本づくりをしてきた身です。谷さんほどの実績はなくとも、それなりの自負があります。
それが、あっさりと「ああ、負けた」と思いました。
圧倒的なこだわりと密度。それらが見事にレシピと融合していて「面白い!」としか言いようがないのです。
僕にはこんな本は作れないし、自分に足りていなかったのはこういうことだったのか。
そんなことを突き付けられた本でもありました。
「こんな本作れねえよおお、谷さんマジ天才だよおお」と敗北感に苛まれる中で、じくじくと生まれたのは「知りたい」という気持ちです。
―ー谷さんはどうやってこんな本を考えて、作ったのか。
知りたいのであれば聞けばいいじゃない!
そんなわけで谷さんに話を聞いてみることにしました。
編集者が敗北を覚えるほど面白いレシピ本は、いったいどうやって生まれたのか……
絶対に編集者になりたいわけではなかった
森 谷さんはずっと出版社で働かれているんですよね?
谷 そうです。新卒で高橋書店に入社しました。一年目は書店営業をやって、二年目から編集部に異動しました。それからは出版社を移ったりしながらも、ずっと編集者をやっています。
森 就活時は出版社ばっかり受けてらっしゃったんですか?
谷 大学でマスコミ専攻だったので、テレビとか広告とかマスコミ全般を受けてましたが、受かったのは高橋書店だけでした。
森 絶対に編集者になりたいというより、もう少し広い「マスコミ」という感じだったんですね。本を読むのは好きだったんですか?
谷 そうですね。でも出版社に入るとみなさんめちゃくちゃ本読んでるじゃないですか。だから「私の趣味は読書です」なんて言えない……と思いながら今まで生きてきました。
森 編集者としては実用書や児童書など幅広く手掛けられてますよね。
谷 そうですね。たなかひかるさんの『おばけのかわをむいたら』とか、『失敗図鑑』とか。いろいろ作っていますね。
想定読者は三人にしようと思っている
森 谷さんが本作りで意識してることはありますか?
谷 想定読者は三人にしようと思っています。編集者だったら自分自身が一番の読者だと思いますけど、自分以外の読者を二人イメージして作ると、広く届けられるかもなと、最近思ってるんです。
一人の読者に向けすぎると、私の場合はニッチになりすぎるんです。自分だけが欲しいという考えでひどい本を作ってしまったり、ハジけすぎてしまった本もあったので、そうならないように心がけています。
森 想定読者が複数いると読者の幅を広げられる一方で、浅くなるリスクもありませんか。みんなにいい顔すると、中途半端なものになる可能性も出てきますよね。その辺はどうバランスをとられてるんですか?
谷 私の中で、そのちょうどいい人数が三人だったんですよ。一人だと狭すぎるけど、五人とか十人まで読者を広げてしまうと、確かに散漫になってしまいます。
森 三人の設定も難しいですよね。読者イメージがバラけすぎても難しいし、近すぎても意味がないし。そこのチョイスが肝心だなと思ったんですけど、どう設定してるんですか?
谷 それが、わりとパッと決まるんですよね。この本は六十代の男性も買ってくれることを想定してるんですけど、六十代の男性も買えるし、私も買えるし、もう少し若い人も買うっていう感じで、パッと決まりました。
この本は「おつまみの晩酌の時間を楽しくしたい」という大きな目的があるんですけど、その目的だけだと、いろんな本の作り方があるじゃないですか。その中で、具体的にどういう本づくりをしていくかが三人に握られてるんです。
今回はテツローさんという定年退職後の方が主人公として出てきますけど、六十一歳の男性が主人公だったら、年配の男性も買いやすいかなということで設定しています。でも私や若い人も買いやすいように、デザインやメニューを渋くしたりはしていません。ちょっと字が小さくて申し訳ないんですけど。それも三人の読者設定があったからですね。
タイトルを決めてから本を作る
森 谷さんが「この企画いける!」と思うのは、どういうタイミングなんですか? 本の企画を考えた時なのか、三人の設定が見つかったときなのか。
谷 それが、実はタイトルが決まった時なんですよ。『おつまみ研究所』は何年も前から考えていた企画なんですけど、ずっとタイトルが浮かばなかったんですよね。それが『おつまみ研究所』っていうのが決まって、「あ、これ出せる」と思って。
森 そうなんですね。たしかにすごくいいタイトルですけども。
谷 それまで『雑に作っても美味しい ざつまみ』とか『怒られそうなおつまみ』とか『怒られそうなぐらい簡単なおつまみ』とか色々考えてたんですけど、なにか違うなと。そんな中で、「簡単」という言葉を推さないようにしようと思ったんです。
「簡単」ってけっこう暴力的な言葉だなと感じたので、それを言わないようにしながら面白さが伝わるようなタイトルにしたいとずっと考えていました。
森 「簡単」が暴力的な言葉って、興味深いですね。僕はレシピ本を作ったことはありませんけど、レシピとかですごく使いたくなる言葉じゃないですか?
谷 そうなんです。実際、私もさんざん使ってきたんですけど、「簡単」って幅があるじゃないですか。たとえば、料理にくわしい人がが「簡単ですよ」と言うことが、私にしてみると結構難しいこともあります。
森 それはありますね。こっちからしたら、キャベツをちぎるのが精一杯という簡単レベルを求めてるけど、向こうからしたら、だしは取らないから簡単よ、みたいな。
谷 そうそう。火は使わないから簡単とか、材料が少ないから簡単とか。簡単の理由付けっていっぱいできて。でも「これ簡単ですよ」と言われたのに、見たレシピが簡単じゃない時って、ちょっとがっかりするじゃないですか。
森 がっかりします。「そんなに簡単じゃないじゃん!」って。
谷 個人差が大きすぎる言葉だなあと思ったので、今回は「簡単」と言わない本にしようと思いました。実際、本の中で一度も使ってないんですよ。その路線が見えたことでタイトルの可能性も絞れてきました。
森 そこからタイトルはどうやって決まったんですか?
谷 元々おつまみ本の決定版を作りたかったので、中に入れるメニューは超定番を入れたかったんですけど、それをどういう切り口で見せたらいいかで悩んでいたんです。で、ふと「研究所」って面白いじゃんと思って。著者の小田先生って「料理研究家」って肩書だけど、リアルにめちゃくちゃ研究してるので。スタジオもコンクリート打ちっぱなしで、ラボっぽいんですよ。
それで最初は『真夜中おつまみ研究所』にしたんです。でも企画書を出したあとで、営業の人が作ってくれた資料を見たら、『深夜のおつまみ研究所』ってタイトルを間違えられてたんですよ。間違えるということは、「真夜中」はダメなんだなと。それで「真夜中」を煮詰めて「23時」にしたんです。
森 なるほど。記憶に残っていないってことですもんね。
谷 そうなんです。間違えられるってことは、覚えていないってことじゃないですか。「深夜」と「真夜中」はたしかに交換可能だし、覚えられる強さがないから、これはヤバいと思って。
森 毎回タイトルを先に決めてから、本を作るんですか?
谷 そうですね。でもここ数年のことです。なるべくタイトルから決めて作るようにしてますけど、なかなかそういかない時もありますね。
編集者として完敗したこだわりページ
森 僕、この本をプルーフで読んだ時に「ああ、編集者として完敗だわ」って痛感したんですよ。この本は僕には作れないし、やっぱり谷さんめちゃくちゃすごいなと思いました。
谷 いやいや、なんでですか?(笑)
森 ページごとの演出が効いているし、これだけの情報量を詰め込むこだわりがすごいなあと。別に入れなくてもいい要素もいっぱいあるんですけど(笑)、そのこだわりの熱量こそがこの本の魅力になってるんですよね。
谷 入れなくてもいい要素(笑) ありがとうございます。
森 スケラッコさんの素敵な漫画も入ってるじゃないですか。レシピ本としてはああいうページがなくたっていいわけですよ。なぜこういう作りにしたんですか?
谷 読者の幅を広げるためもありますけど、単純に情報だけだと、もう買ってもらえないと思ってるんですよ。
森 ただのレシピだけだと弱いということですか?
谷 レシピってネットで検索したらたくさん出てくるじゃないですか。もちろんそれだけで素晴らしい本もいっぱいあるんですけど、情報をまとめただけの本に、今はなかなか価値を感じてもらえにくくなっている気がするんです。あと、私自身が読んでいて楽しい本が好きなのもありますね。
森 たしかに読んでて楽しい本ですよ。だって、この下の「長芋一句」って何ですか?(笑)
谷 これ、考えるのが楽しくて(笑)
森 でもこの積み重ねと密度が、この本の一番素敵なポイントだなと思っていて。
あ、ユッケのページも好きですね。
谷 これほんと叫びましたよ「ユッケ~~!」。実は一日目の撮影では「ユッケ」ってところで終わってたんですよ。「先生、ちょっとこれ『ユッケ』って感じなんですけど」とか言ってたら、「そっか、じゃあ、あれ出さなきゃダメね」みたいにおっしゃって。そこで「やっぱ味噌を足さなきゃダメか」みたいに思いつくところがすごいですよね。で、二日目の撮影で第四形態になって出てきて、「ユッケ~~!」になったんですよ。
森 本当に第三形態ぐらいまで行かないと「ユッケ」にならないんですね。
谷 そうなんですよ。
森 「ユ……」って感じなんですね。
谷 「ユ…?」って感じです。すごく面白いので、ぜひ試してほしいです。
森 そして個人的に一番のツボページは「さみしくない乾き物」ですね。「さみしくないって何?」と思って(笑) これはなんで入れたんですか?
谷 おつまみとして乾き物は絶対入れなきゃいけないと思ったんです。コンビニに行ったら乾き物って大きなスペースを取ってるじゃないですか。だから乾き物は入れたいけど、そういえば乾き物の日って、なんかちょっと寂しいなあと思って。
森 ……そうですか?(笑)
谷 その時に「さみしくない乾き物」っていう言葉が浮かんだので、先生に相談したら「それは温度と水分ですね」って言われて。そしたらこのページが実現しちゃったわけです。
森 そこで「さみしい」というキーワードを見つけ出すのもすごいし、論理的に返せる先生もすごいですね。このページも「さみしくない」という切り口がなかったら、単に乾き物の紹介してるだけだから成立しないじゃないですか。この切り口だからレシピとしても必然性がありますし、読んでいても面白い。
谷 なんかコンビニにしか寄れない日もあるじゃないですか。今日は仕事しかしてないなあっていう疲れた日にこのページのことを覚えてたら、「いかくん買って帰って、ちょっとだけごま油と塩かけてみようかな」とか。
森 疲れ果てた日も、レンジでチンぐらいはできますからね。ちなみに「鮭とばって魚だったんだなと思えてさみしくない」っていう一文が好きです(笑)
谷 これ本当に思ったんです。「ああ、魚だったんだなあ」って。すごいしっとりするとね、魚感が出てくるんですよ。
森 あと、何気にありがたかったのが、このページです。
谷 ここすごく評判がいいんですよ。嬉しいです。
森 料理するときに、野菜の100gってどれぐらいなんだろうといつも思うんですけど、野菜にわざわざ計りを使わなくてもいいか? みたいな気持ちもあって。
谷 わからないですね。私も適当にやってます。
森 大さじ1/2の量もけっこう意外でした。もっと少なめにしてましたね。
谷 主人公のテツローさんが料理を三十年ぶりにするような人の設定なので、このページがあればテツローさんもおつまみを作れるだろうと考えて入れたんですよね。
森 やっぱり、きちんと想定読者に寄り添って作られているんですね。
誰かの人生で「好き」と思える時間を増やしたい
森 本を作るときに、大事にしているポイントなどありますか?
谷 「好きだ」と思ってもらえるかなというのは、結構気にしています。「いいか悪いか」より、「好きか嫌いか」の方が強いですね。私たちは生まれたいと思って生まれてきていないじゃないですか。まったく頼んでないのに気づいたらこの世に参加させられて、よくわからないまま死に向かっていくし、誕生日とかも喜ぶけどいつか死ぬし、みたいな。そんな日々を送っている中でも好きだと思う感情はあって、その心を持っている時だけは、生まれてきて良かったと感じるじゃないですか。その一要素になれればいいなと思ってるんです。
森 それはすごく素敵ですね。いい本を作りたいということよりも、誰かの好きな時間を少しでも増やしたいってめちゃくちゃいいですね。個人的にもすごく同感です。
谷 スケラッコさんの絵がかわいいな素敵だな、「好き」。このレシピ美味しそうだな、「好き」。作ってみて美味しい、「幸せ」、みたいな。なんというか、確かさみたいなものが、人生の中で数分でも増えたらいいなって思うんです。
だからこそ、好きな先生、好きなイラストレーターさん、好きな漫画家さん、好きなデザイナーさん、好きなカメラマンさんにご依頼していますし、そのうえで自分で読んで大好きだなと思えるところまで本のクオリティをもっていかないといけないと思っています。
森 谷さんの「好き」が詰まっているからこそ、この本には楽しさがあるんですね。あらためていい本だなあ。この本の魅力が少し分かった気がしますし、谷さんの本づくりのお話を聞けて、すごくよかったです。今日はありがとうございました。
(構成・編集:文芸編集部 森潤也)
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