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ポップインサイト創業記(63)~大規模縮小の決断

前回紹介した様に、妻の一言で我に返った私は(参照:(62)〜2件の大きな失注が決め手となり体制を大きく変える事を決意)、ポップインサイトの再起を図る為に体制をドラスティックに縮小して行きました。今回はその際のエピソードをお伝えしていきます。

不要なものを片っ端からカットしていく

コストを徹底的に縮小すると決めた私は、次々と不要なものを全てカットしていきました

まずは、オフィスの解約です。このオフィスには4月に入ったばかりでまだ半年程しか経っていませんでしたが、迷わず解約を申し入れました。実は、オフィスの場合、多くの場合は申し入れてから半年くらい後でないと解約できないんですよね。これは契約上そう決まっているから致し方ありません。半年後に解約退去する形で申し入れました。

次に大量に採用したインターン生です。インターン生に関しては、オフィスが無くなる事が決まっていた事や、ビジネスモデルを安定型に移行しようとしていた事から、徐々にインターン生にやってもらう業務も減って行き、特にネガティブな雰囲気も無く自然な感じでフェードアウトの様に終了する事ができました。

その次は外部顧問サービスです。顧問サービスはまだ始まった直後という感じだった訳ですが、平身低頭お詫びして終了させてもらいました。勿論、営業窓口の人は「困ります」といった感じで簡単には受け入れてもらえませんでしたが、顧問ご本人と営業窓口の人に丁寧に事情を説明しつつ、誠心誠意お詫びすることで解約することができました。

全員を集めて今後を相談

この様に不要なコストを次々とカットしていった訳ですが、必要でありながら支出の中で大きなウエイトを占めるものが「給与」や「役員報酬」です。

当時、社員は役員含めて7名でした。私と共同創業者の喜多君が役員、後は営業担当者が2名とリサーチ担当者が3名という内訳でした。この全員分の給与をこれまで同様に支払う事はかなり難しい状況でした。

そこで、会社の今後と皆の給与に関して相談する為に、メンバー全員に会議室に集まってもらいました。そしてその場で私から皆へこの様に話したのです。

「大変申し訳ないけれども、私たちの会社は危機的状況にあります。船の航海で例えると、荷を積みすぎていてこのままでは私達は沈んでしまいます。相当荷を捨てたものの、このままでは全員を乗せて航海を続けて、目的地にたどり着くことはできません。そこで、泳げる人には、少しの間ボートから半身降りてバタ足で漕いでもらいたいんです。つまり、可能な人にはポップインサイトの仕事を副業の様な位置付けにして、他をメインにして稼いでこの時期を乗り越えてもらいたいんです。少しの間その様にすれば、必ず近い将来再起を図る事ができます。それまでの間、協力してもらいたいんです。」

能力が高い人には半分ボートから降りてバタ足してもらう

ポップインサイト自体のサービスは取引先から信頼を得ているし、引き続き注文も来ている。これまでも堅調に成長して来た訳だし、長期的な目線で見ればこれからさらに実績を積んで拡大が見込めるのは間違い無い。しかし、成長スピードが早い訳ではないし、少しの間はコストカットせざるを得ない。だからその間、ビジネス能力の高いメンバーは他で稼いでもらって凌いで欲しいと。

具体的には、私、喜多君、営業の木島さんと、もう1人のS君は、他で稼ぐ能力があるから、ポップインサイトの報酬や給与を月10万に減らして、足らない分は別で稼いでもらえませんかと。

残りの3人はビジネス経験が少なくて、すぐに他で稼ぐのは難しい。だから3人はこのまま同じ形で継続してもらいましょうと。

3人は引き続きボートに乗って、残りの4人はボートから降りて片足バタ足でやっていきましょう。

・・・この様に皆に伝えたのです。

当時、半分副業体制にする“バタ足4人組”はどんな状況だったかと言うと、まず私自身はいくつか他のビジネスにチャレンジを始めていたこともあり、何とかできるのではないかという感じでした。共同創業者で役員の喜多君は、元々人品共に相当優秀で、さらには仕事が山の様にあるエンジニアだから絶対にやっていけると見込んでいました。

営業の木島さんは、ちょうどその頃個人的に岡山の会社から、「採用人事の支援をして欲しい」という依頼を受けていて、年間1,000万円位で引き受けようとしている所でした。彼はその後1年位、毎週夜行バスで月曜日に岡山に行き、金曜に再び夜行バスで帰ってくるみたいな生活を送ったのですが、交通費や宿泊費などの経費を抜いても充分なお金が手元に残る様な感じで全く問題ありませんでした。

もう1人のS君はとてもユニークな男です。彼は大学を卒業した後にガーナに行って起業して、ネットで車のポータルサイトを作って仲介するサービスをしたという経歴の持ち主でした。

彼は喜多くんの高校の同級生だった縁で知り合って、ポップインサイトに入ってもらっていたのですが、卒業後すぐに海外で起業して戻って来たという経歴は、履歴書に書くにはあまりにもユニーク過ぎます。その為、明らかに能力は高いものの、なかなか日本の会社で採用を受けるには難しい状況がありました。

そこで、当時スタートし始めていたクラウドソーシング事業の方をメインで担当してもらうことを提案しました。まだ伸び代が大きくあった新事業を成果報酬的に取り組んでもらうのはどうかと。結果、彼はその後クラウドソーシング事業で猛烈に頑張って、事業をどんどん伸ばす事に成功しました。

この様に半分副業体制の“バタ足4人組”に関しては、他に収入を得てもらって大丈夫だという見通しがつきました。私はこの様に社員全員の道筋を付けつつ、自分も報酬も大幅に減らして他で稼ぎながら再起への取り組みをスタートして行ったのです。

必要な要素は規模を縮小して維持

社員以外のメンバーはどうしたかと言うと、創業当初から動画をチェックしてもらっていたアルバイトの人達には残ってもらいました。 ユーザーテストを存続する為には動画チェックは不可欠な要素だったし、完全に信頼関係が出来上がっていたので残ってもらう事にしました。

また、スポットで経理財務を担当してもらっていた細田さんは、元々優秀な方だった上に、職掌的に会社に必要不可欠な存在になっていたので、稼働を少し下げてもらいつつ残ってもらう様にしました。

この様に、必要な要素は存続しつつ、どうしても必要な要素以外は思い切って全てカットしていったのです。

思い切ったコストカットから再起をスタートしていった

以上の様な感じで、不要なコストを全てカットするという方向に会社を大きく振っていった訳です。

本来は必要と言えるものではなかった、オフィス、インターン生の採用、外部顧問サービス等は全て終わりにし、報酬や給与体制は、会社も社員も現実的に生きながらえる事ができる形を模索しながら縮小しました。

因みにこの時期の売上状況は、これまで培った取引先の信頼を元に案件は途絶える事なく来ていたので、前年とほぼ変わらないレベルはキープできていました。前年比トントンもしくは微増といった感じです。支出さえ減らせば、充分再起を期することができました。

この様に私はメンバーと一丸となって、思い切ったコストカットの取り組みから始めることで会社の再起に向けてスタートしていったのです。

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