〈舞台〉に立つ、〈舞台〉を降りる――前川佐美雄『白鳳』私論/一月の短歌
前回のnote
はじめに
前川佐美雄の第三歌集『白鳳』は1941年7月に出版された。刊行順でみれば『植物祭』『大和』につづく第三歌集だが、『大和』より前の1930-35年の歌を収めており、実質的な第二歌集に位置づけられる。
このnoteは三枝昂之『前川佐美雄』、三枝昂之編『前川佐美雄歌集』の二冊を頼りに彼の表現世界を辿ることが目的である。しかし、『白鳳』は『前川佐美雄歌集』には80首しか収められていない。
一方、三枝は「極めて特殊な魅力を持った歌集」(『前川佐美雄』p.127)と非常に高い評価を下している。そして、筆者は『白鳳』の短歌が面白すぎたので、デジタルコレクションを用いて全首を通読し、以下に『白鳳』私論を提出する。
※2.『白鳳』の表現世界が独立した歌集評となっています。
1.『植物祭』から『白鳳』まで
1930-35年の前川の経歴を辿っておこう。
前回、昭和初期の歌壇には既成歌人(リアリズム・文語定型)・プロレタリア短歌・モダニズム短歌の三派があり、短歌の革新を目指す後者二派には文語/口語、定型/自由律という対立があったことを示した。この構図は早くも崩れていく。
プロレタリア歌人連盟の機関誌「短歌前衛」は1930年11月に「プロレタリア短歌」に改題されるが、次第にアジプロの口語自由律短詩として先鋭化していく。連盟は1932年1月に短歌を詩に解消するとして解散し、「プロレタリア短歌」も1932年4月に終刊となる。なお、一部の同人は「短歌評論」を創刊してプロレタリア短歌の独立を計った。プロレタリア短歌は弾圧の拡大によってむしろ高揚し、思想的に純化していく流れがあったが、運動としては衰微を免れなかった。
一方、モダニズムの自由律短歌は活況を呈しており、前田夕暮「詩歌」をはじめとして様々な歌誌が自由律に転進していた。プロレタリア短歌の動向からも分かるとおり、この時期の革新二派は文語/口語、定型/自由律という対立になく、口語自由律が多数派を占めていた。つまり、前川が維持した文語混じりの口語定型歌は厳しい立場に置かれていたのである。
前川は『植物祭』の好評を追い風にして、この立場から1931年1月に「短歌作品」を創刊する(1933年に「カメレオン」へと改題)。しかし、刊行はまちまちであり自派の拠点となるには至らなかった。三枝はその理由を前川の「気紛れ」さにみる(『前川佐美雄』p.138)。
前川の動向をみると、1926年に奈良から上京した前川は1930年にモダニズムの本場である西欧への渡航計画を立てるも、同年12月に腸チフスに感染・入院したことで断念を余儀なくされる。1932年12月に父が亡くなると、翌年2月から奈良に帰郷し、以後37年間にわたる故郷での生活がはじまる。1934年6月、前川は意を決して「日本歌人」を創刊し、定期刊行を厳守、関西の有力誌の主宰として地歩を固めていく。
『白鳳』は前川にとって変化の多い時期の歌を収めている。目次のどこからが帰郷ののちに詠まれた歌か『前川佐美雄』では十分に示されていないももの、おおむね「月日」までが東京、「春の日」からが奈良で詠まれた歌だと思われる。また、「三寒四温」「冬日夢」「恢復期」は腸チフスによる入院生活を題材としている。歌集を読むうえで不可欠な情報ではないが、これらを踏まえると歌風の変化に十分な説明がつく。
2.『白鳳』の表現世界
2.1.〈世界〉になじめない〈私〉
まず、筆者の『植物祭』私論の要点をおさらいする。『植物祭』において前川は現実らしくない歌を読みたかったが、現実ではない歌を読むつもりはなかった。〈世界〉は異物が混入するのみで現実世界と地続きであり、〈私〉だけが狂人らしくふるまうものの、狂人になりきることはできない。
〈私〉は常人らしくないが、狂人でもない。「きちがいのやうに」という振る舞いが〈私〉を孤立させていく。
〈世界〉に異物を呼び込もうとするものの、やはり「行きたし」という期待で終わっている。〈世界〉は何も変わっていない。
『植物祭』は〈世界〉になじめない〈私〉を詠んだ歌集だと思う。ただひとり孤立してしまった〈私〉は、まるで読者に呼びかけるように〈世界〉の崩壊を希求する。同時にこれは現実らしさを前提とした近代短歌から抜け出せない前川自身の苦悩でもあっただろう。
2.2.〈舞台〉に立つ
『植物祭』における〈私〉は、言わば舞台を持たない舞台役者だった。現実世界を生きる〈私〉が〈狂人〉になりきるためには、その役に没入できる〈舞台〉が必要だったのである。ここでいう〈舞台〉は限定された〈異世界〉と言い換えてもいい。
『白鳳』は〈私〉が「野」を根城としている、という歌から始まる。一読して明瞭なように、この歌の〈私〉は現実とは異なる感性の持ち主として自律している。それは「野」という〈舞台〉を獲得したからであり、前川はようやく安心して〈異なる私〉を歌の主体に置くことができるようになったのだろう。
なお、今までは「きちがひ」と自称されていたために〈異なる私〉を〈狂人〉と呼ぶほかなかったが、以下では〈異人〉と呼び方を変えることにしたい。
「野」に生きる〈私〉は様々な存在へと変身を試みる。一首目は「億万の花」が咲く幻想的な〈舞台〉をさまよう〈私〉、二首目は「神」になりきる〈私〉が描かれる。
では、なぜ「野」が第一の〈舞台〉に選ばれたのだろうか。
「野」と「街」
先の歌に「生きものの一つをらない青空」とあったが、「野」は人が群れる都会と対置される場所である。重要なのは、前川が東京に住んでいたからこそ「野」を理想的な〈舞台〉として描くことができた点だろう。後述するように、『白鳳』後半では帰郷することでこの関係が崩れてしまう。
〈私〉は「街」に住んでいるからこそ死ぬことができない。「街」は生活の空間だからである。
対して、「野」は死に近接する空間である。ここでは「街」の一室が「緑の花」に侵され、〈私〉は死を予感している。「生きものの一つをらない青空に今日しも神となりて葬らる」にも自然と同化して死のうとする欲望があった。
また、「街」は人の世界、「野」はけものの世界である。ここで〈私〉は「野」のけものと区別されているが、「野」に帰った〈私〉はけものに近づいていく。
また、「野」は古の世界に通じている。「五百年野良に住みゐる身」とは「野」のことを擬人化しているのだろうか。「街」は新しくできた空間に過ぎない。関東大震災後の復興が進む東京にあっては、一層そのことが強く感じられただろう。
『植物祭』の発展
ここでは『植物祭』のモチーフを『白鳳』がいかに継承したかを確認する。
『植物祭』にはすでに野=平穏のモチーフがあり、これが『白鳳』に発展的に継承されているのが分かる。
「街」が「秋晴」になると〈異世界〉に通じるというのは『植物祭』からあったモチーフだが、『白鳳』では「人間らしき涙」と人間でないことを前提としている。この発想の延長線上に次の歌がある。
モチーフが直接的に引き継がれたわけではないが、「公園の噴水がねむい音なり」では噴水が子守唄のように響いている。〈私〉にとって「公園」とは「噴水」が不可欠な場所であり、そこから後者の発想が生まれたのだろう。
「白」い入院
「白」はモダニズムが愛した色彩である。
「白くなりはてて」という措辞に死の影がちらつく。「百年野にひとを見ず」とは、〈私〉は人ではないのか、〈私〉のいない〈舞台〉の話なのか。
前川にとって「白」は死と結びつくものだった。「星だらけ」という措辞には星空に環視されているような恐ろしさがある。
病中吟だが、「白い室」という〈舞台〉に閉じ込められた〈私〉の歌としても読め、必ずしも病室に限定する必要はないだろう。死に浸った〈私〉はもはや「青空」を思い出すことができない。
〈私〉の身体が「白」に満たされる。「鳥」は野のけものだから、これも死のモチーフだ。「あでやかな室」は窓の外の世界を指すか。ここまで純化された短歌は『植物祭』になく、『植物祭』で示したモダニズム短歌を大きく前に進めている。
「仕合せなりけむ(そのときは幸せだっただろう)」という懐古の歌だが、〈私〉は「白」=死を受け入れているようである。それは、〈私〉が「白」く生まれたからだ。
「霞」む生誕
生誕の〈舞台〉は「霞」みがかっている。生命の根拠たる「母」も、調和の対象である「野」も目にすることができない。いわば浮浪児として〈私〉が位置づけられている。
そんな〈私〉が結びついたのは「白犬」、「野」のけものであり「死」に近しい存在であった。〈私〉は希死念慮を抱えて生まれたとでも言いたいような歌だ。
歌集を読み進めるとこの歌に出会い、どきりとする。「ピストルは玩具といふことを知りながらどんどん菖蒲の咲く池に撃つ」という歌があるから空砲なのだろう。ここで〈私〉は過去の自分を殺そうとしているのだろうか。
2.3.〈舞台〉を降りる
1933年2月に前川佐美雄は帰郷する。ここから前川は、今まではモチーフだった「野」のなかで生活するようになる。
「太古の代」を感じるのは「穀物蔵」で、「野」はここで非常に現実的な地点から捉えなおされている。
「岩となれ我は」に切実さが感じられないのは、「岩」に感情移入しがたいという点もあるだろうが、歌が非常に現実的な地点から詠まれているからだ。「野」が生活圏になることは前川の歌から確実に幻想性を奪っていった。
東京では「野」に「神となりて葬らる」とまで言っていた〈私〉だが、実際に「野」に帰ると「神はどこにも」いない。
この「念仏」は神秘的な声では全くなく、「なめくぢ等」から聞こえてくる因習の象徴のようである。
端的に言えば〈私〉は東京に帰りたかったのである。こうした「野」という〈舞台〉の喪失は、おそらく『大和』において何らかの達成を導くのだろう。
ふるさとの「うた」
『白鳳』において「野」に暮らす〈私〉が獲得したモチーフは「うた」だった。「うた」とは、太古から現在までのあらゆる人々の声を〈私〉が再生する営みである。その声は〈私〉の声であるとともに〈世界〉の声であり、太古の声であるとともに現在の声である。ここで〈私〉は「夕虹のうた」を歌うことで、「野」の暮らしから永遠なる〈文芸〉の世界に遊離しているのだ。
「うた」は誰のものでもない。「なめくぢやげぢげぢ」はネガティブなイメージだが、彼らはたしかに「とむらひのうた」を歌っている。
太古の遺物も「うた」として現在に響きわたっている。彼らは「うた」に生き残っているのだ。
これは決意の歌だと思う。「野」の暮らしがいくら苦しくとも「生涯のわが歌」を歌いつづける。「膝たたきつつ」に「歌」を楽しもうとする心情がうかがえよう。前川は自身の生命をうたに込め、筆者はいまそれを再生しているのである。
おわりに
三枝は『白鳳』を「「心の花」という母胎を離れて「日本歌人」という字前の基盤をつくるまでの試行錯誤の時代」として捉えている(『前川佐美雄』p.132)。筆者もおおむね同意するものの、『白鳳』前半部は『植物祭』にはじまる前川のモダニズム短歌のさらなる達成を見せていると思う。対して、『白鳳』後半部は以後37年間にわたって故郷で詠みつづける短歌の出発期であり、まさに「試行錯誤」の時代であった。
なお、このnoteは『秀歌十二月』との関連で、各月の歌人をピックアップするnoteの一つとして書かれている。毎月違う歌人をとりあげる予定だが、著者である前川佐美雄のみ複数回とりあげるつもりだ。
いまは1月末、晩冬にあたる。第2回である今回は彼の第二歌集『白鳳』の表現世界を読み解いた。『白鳳』に冬の歌は少なく、春の歌が多い。「野」を舞台に選んだ当然の帰結であろう。noteにも春の歌を多く引用することになった。
次回は4月、いよいよ『大和』を読んでいくつもりだ。またお読みいただけるとうれしい。
付・『秀歌十二月』十二月
このnoteは前川佐美雄『秀歌十二月』読書会との関連で執筆されました。
『秀歌十二月』は古典和歌から近代短歌にわたる150首余の歌を一二ヵ月にわけて鑑賞したものです。立項外の歌を含めると400首ほどになると思われます。
『秀歌十二月』の初版は1965年、筑摩書房から刊行されました。これは国会図書館デジタルコレクションで閲覧……できなくなりました。同書は2023年5月に講談社学術文庫から復刊されています。
読書会を円滑に進めるため、歌に語釈・現代語訳などを付したレジュメを作成しました。疑問点などあればお問い合わせください。レジュメはぽっぷこーんじぇるが作成していますが、桃井御酒さんの詳細な補正を受けています。